待降節 第4主日(2019年12月22日)クリスマス合同礼拝・説教要旨
 

「我らなくして神為さず」
(ルカによる福音書2章1〜20節、マタイによる福音書11章2〜6節)
北村 智史

 ルカによる福音書2:1〜20を読めば、この世の罪が渦巻く現場、弱く貧しい人々のそのただ中にイエス様が救い主としてやって来られたことが良く分かります。しかしながら、そうした救い主の誕生を喜び祝う時、私は同時に疑問に思うことがあります。
それは、救い主御子イエス・キリストが生まれたにもかかわらず、なぜ未だにこの世界には数多くの悲劇が満ち溢れているのだろうということです。2000年前も今も、同じように人々の苦しみは残っており、不平等な世界であり、ある意味ではもっと複雑でもっと悪くなっているようにさえ見える現実がそこかしこにあります。イエス・キリストの誕生は何一つ問題を解決していないようにさえ見受けられます。
  だからこそ、真面目な人であればあるほど、クリスマスのこの矛盾に躓いてしまいかねません。こうした矛盾に悩まされたのは、どうやら今の私たちだけではなかったみたいです。かつて洗礼者ヨハネもマタイによる福音書11:2〜6でこうした矛盾に悩まされました。
  ヘロデを激しく批判したことで逮捕されてしまった洗礼者ヨハネ。しかし、彼には大きな希望がありました。とうとうイエス様というメシアがやって来られた。この方は聖霊と火で洗礼を授けられる。そして、悔い改めた者を神の国に入れ、悔い改めない者を永遠の業火に入れられる、そんな終末の裁きを成し遂げられる。そんな風にして、もうすぐこの地に神様の正義が成し遂げられる。彼は苦難の中で、そう信じていたのです。
  けれども、いつまで経っても、イエス様がそのような終末の裁きを開始されたという知らせは、洗礼者ヨハネの耳には入って来ませんでした。その代わりに、彼は実際にイエス様が為さったことを耳にします。それは、片隅に追いやられていた人々の医者としてイエス様が振る舞われたという知らせでした。それはそれで大きな奇跡には違いありませんが、しかし、それらは、今の秩序がひっくり返るような神様の裁きに繋がるものとは思えませんでした。イエス様がやって来られても、この世の理不尽な悲劇は至るところで理不尽なまま。それらが根本的に解決されるとは思えなかったのです。
  そこで洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちを遣わしてイエス様に尋ねました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。この質問に、イエス様は直接お答えにはならず、こう言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」、「わたしにつまずかない人は幸いである」と。
  洗礼者ヨハネが望んでいたのは、誰もがメシアと認め、偉大な力ですべてを押し流して一掃し、すべての理不尽な悲劇をこの世から消し去ることによって、神様は全能であり正義に満ちた方であると証言する、そんなメシアです。しかし、洗礼者ヨハネに示されたのは、イエス様からポタリポタリと滴り落ちる、憐れみの雫でした。多くの人たちには、そこにメシアの姿は全く見えません。しかし、そこにこそメシアの姿を見よとイエス様は言われたのです。
  イエス様のこの言葉は、今の私たちにも向けられています。クリスマスを前に、私たちもまた洗礼者ヨハネが考えたようなメシアを期待します。天から火の玉の一発でも降らせてこの地上から悪を一掃し、この世界から一気に理不尽な悲劇を全部無くしてしまう、そうして、神の国、神の正義を今すぐにでもこの地上に打ち建ててくれる、そんなメシアを期待します。しかし、イエス様はそんなメシアではないのです。私はこのクリスマスに、そんな主の御降誕を告げ知らせることはできません。その代わりに私たちに与えられているのは、イエスという名を持つ一人の人に従った人たちからポタリ、ポタリと絶え間なく滴り落ちてくる、憐れみの一雫です。イエス様は今も御自分に従う人々を通して、この世界の片隅に追われている多くの人たちに対して医者として振る舞っておられます。
  奇しくも今月は初めに、長年アフガニスタンで人道支援と復興に携わって来られたペシャワール会の中村哲さんが銃撃され、死亡したという痛ましいニュースがありましたが、この中村哲さんの働きなどはまさにイエス様の御心に適う働きだったと私は思います。
こうした働きを展開しておられるのは、決して中村さんだけではありません。世界には、このように神様、イエス様の働きを担う人々が大勢おられます。こうした人々を通して、苦しみの中にある人々へ、イエス様の憐れみの雫がポタリ、ポタリと滴り落ちていくのです。
  それは、偉大な力でこの世界を一気に神の国に作り変える、そんなメシアを期待する人にとっては、実にもどかしいものであるかもしれません。一度に救われるのは、ほんのわずかな人たち。その一方で、理不尽な苦しみの中に置き去りにされている人々もたくさんいることでしょう。
  しかし、儚い雫の一滴一滴が、大波には決してできないやり方で小石を変形させて行くように、イエス様に従い、その御用を担う人々のその働きがこの世界を確実に変えていきます。私たちにはその理由は分かりませんが、これが、イエス様がもう一度私たちのもとにおいでになるためにお決めになったやり方なのです。いっぺんにではなく、絶え間なく、一滴また一滴、千年、二千年をかけて。イエス様が生きられたように、またイエス様が愛されたように、誰かが人を愛して生きるその時、雫がもう一滴落ちてきます。
  我らなくして神為さず。願わくはこのクリスマスの一時、私たち、イエス様に従い、その御用を担う人々のその働きに連なっていくことができますように。イエス様から滴り落ちる愛の雫の一滴となって、皆で一緒にこの世界を神様が望まれる形に変えていきましょう。

 
 
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