2020年12月24日(日) クリスマス燭火礼拝・説教要旨  
 

「神様の矛盾に生かされる」
マタイによる福音書 1章18〜25節・ルカによる福音書 2章1〜7節
ヨハネによる福音書 1章1〜18節 
北村 智史

 クリスマス、おめでとうございます。毎年この燭火礼拝の日を迎えますと、今からおよそ2000年前に私たちの歴史に起きた主の御降誕の恵みを思います。と同時に、今年一年間、様々な所で神様からいただいた恵みとお支えが次々と頭の中に浮かんで参ります。
振り返ってみれば、今年は大きな苦難の年でした。新型コロナウィルスのため、世界中が忍耐を強いられたのです。私たちの社会でも、今ちょうど感染の第三波の嵐が吹き荒れていて、このクリスマスの礼拝もどうなることかと危ぶまれました。そのような中でも、感染対策を徹底し、なんとかこのようにクリスマス礼拝や燭火礼拝を執り行うことができたのは、まことに神様の恵みという他はありません。
  世界が暗闇に包まれる中で、こうして私たちがクリスマスをお祝いすることには大きな意味があると私は思います。私たちにはイエス・キリストが共におられる。そして、イエス・キリストが成し遂げてくださった救いがある。それゆえ、必ずやイエス・キリストが今回のこの苦難をも打ち破り給うて私たちを救いへと導いていってくださるであろう。その希望を表明することができるからです。クリスマス・イブのこの日、まだまだ先の見えない苦難が続きますが、それはイエス・キリストと共にやがて乗り越えられつつある現実であることをしっかりと確認し、主にある希望で心を満たしていきたいと願います。
  さて、クリスマス燭火礼拝の今日は、三つの聖書個所をお読みいただきました。これらはいずれも、イエス様の受肉、誕生について書かれた箇所に他なりません。
  マタイによる福音書では、何と言っても「インマヌエル」という言葉が私たちの目を引きます。「インマヌエル」というのは「神は我々と共におられる」という意味ですが、イエス・キリストこそ旧約聖書に預言された「インマヌエル」の主、メシアに他ならないとする信仰がここには込められています。
  続いて、ルカによる福音書に記されているイエス様誕生のお話に目を向けますと、そこには、イエス様が家畜小屋の飼い葉桶の中にお生まれになったということが記されています。子どもが生まれそうになっているのに、誰も泊めてくれない、無関心、愛の欠如、人々の罪溢れる現場、貧しく小さくされた人々のその現実のただ中にイエス様はやって来られたのです。
  そして、ヨハネによる福音書ですが、ここにはイエス様が天地創造の前から神様と共におられた、神様と等しい存在であること、そして、そのイエス様が今からおよそ2000年前に人として受肉され、私たちのもとにやって来られたことが記されています。しかし、人々はこのイエス様を受け入れず、迫害し、十字架につけてしまったのでした。このようにヨハネによる福音書では、ただ単にイエス様の受肉について記すだけではなくて、受肉されたイエス様のその後の運命にまで言及されています。クリスマスの出来事、それはイエス様の十字架とセットであり、これと切り離しては考えられないことをヨハネによる福音書は私たちに伝えているのです。
  今日はこのヨハネによる福音書に従って、イエス様の御降誕日の前夜にあえてイエス様の十字架の出来事に思いを馳せたいと願います。実に、イエス様がこの地上に人としてやって来られたのは、十字架と復活の出来事を成し遂げるために他なりませんでした。ヨハネによる福音書3:16には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されていますが、神様は十字架と復活の出来事を通してすべての人々の救いを成し遂げるために、今からおよそ2000年前にイエス様を人としてこの世に遣わされたのです。
  このイエス様の十字架について、それは神様の義と神様の愛が交差する出来事だったということが良く言われます。つまり、神様は義の神様、正義の神様であり、本来ならば罪を抱えた人間を罰せずにはおかれない方に他なりません。しかし、神様はその罰、裁きをすべてイエス様に背負わせることで、無償で私たちの罪を赦し、私たちに永遠の命を与えてくださったのです。このようにすることで、神様は御自分の義を少しも損なうことなく貫いたままで、私たち人間に対する愛を全うされました。すなわち、神様はイエス様の十字架の出来事を通して、御自分は罪を罰せずにはおかない正義の神様であるけれども、同時に罪を抱えたすべての人間を無償で赦し給う愛の神様であるという矛盾を見事に両立させたのです。
  この矛盾ですね、「神様は罪ある人間に対する裁きを蔑ろにはされない方である。しかし、同時に神様は罪を抱えたすべての人間をただその憐れみにより無償で赦し給う、そして救い給う」というこの矛盾について思う時、私には思い浮かんでくる一つの聖書個所があります。ノアの洪水、ノアの箱舟の記事です。
  「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になっ」た神様は、大洪水によってすべての生き物を滅ぼすことを決意されました。しかし、ノアだけは神様の御前に正しい人であると認められ、主の好意を得て、家族と共に、またつがいの動物たちと共に箱舟に入るよう言われ、そして洪水から救い出されます。
  しかし、この物語をよくよく読むと、おかしい点があることに気付かされるのではないでしょうか。そもそも神様から正しいと認められたのは、ノアだけだったはずです。しかし、聖書では、ノアの妻と子どもたち、そして子どもたちの妻たちまでもが箱舟に入り、さらに「清い動物と清くない動物」まで箱舟に入るのです。これは、大きな矛盾ではないでしょうか。人の悪を一掃するために大洪水を起こされるにもかかわらず、「正しく、清く」ないものまで神様は箱舟に入れ給うのです。神様の裁きとしての大洪水の意味を根底から台無しにしてしまいかねないこの矛盾、しかし、私たちはまさにこの矛盾によって生かされている存在ではないか、この矛盾がなければ私たちはこの世界に生きていることはできないのではないかと旧約聖書に詳しい内坂晃牧師はある説教集の中で語っておられます。
  「『正しく、清い』者だけが生きる世界であるなら、私たちはとっくの昔に滅びてしまっていなければならぬでしょう。『わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは幼い時から悪いからである』(創世記8:21)というみ言葉があるからこそ、こんな私たちも生きていることができるのではないでしょうか。傍観者として聖書の記事を読むならば、洪水によってすべての悪が一掃され、『正しく、清い』ものだけの世界になった方が、ずっとすっきりしますが、そこに自分の存在を投入して読む時、この聖書の記事の矛盾は、私たちにはなくてはならぬものとなるのであります。近代の人権思想が述べるように私たちは当然自明の生きる資格があって生きているのではありません。神さまのゆるしと忍耐の下に生かされているのであります。……『もはや、人の故に地をのろわない』と語られた神さまの決意の背後に、どれほどの思いが秘められていたか、それを私たちはこの資料が書かれた実に数百年後に、イエス・キリストの出現という出来事を通して知るのであります。人の『幼い時から心に思い図る』一切の悪を、主イエスは一身に背負って十字架の道へと歩まれたのでした。」
  内坂先生の言葉です。こうした言葉から窺えるように、神様はしばしば矛盾した思いを心に抱くお方なのです。御自分の義は貫きたい。と同時に、人に対する憐れみが溢れて止まらない。神様は御自分の義と御自分の愛との間で大きく葛藤なさいます。そして、その神様が悩みに悩んで究極的な形で考え出されたのが、御子イエス・キリストの御降誕、十字架、復活の御計画だったのだと私は思います。私たちに下されるはずの裁きを一身にイエス・キリストに背負わせる。そうして、御自分の義を完全に貫いたままで、清くも正しくもなれない私たちを無償で赦され、御自分の愛を貫徹される。そこでは、神様の義と神様の愛とが見事に両立しています。私たちに対する裁きを蔑ろにせず、私たちに正義を求め、その上で罪深い私たちをそのままで救い給うという矛盾が見事に両立しています。そして、私たちは神様が見事に両立を成し遂げてくださったこの矛盾によって初めて生かされる存在に他なりません。
  せっかく大洪水でこの世界の悪を一掃しようとされた神様が、洪水の後「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」などと言われるのは確かに矛盾しています。神様が罪ある人間に対する裁きを蔑ろにされず、正義を求められる、しかし、同時に罪を抱えたすべての人間をただその憐れみにより無償で赦し給う、救い給うというのも確かに矛盾しています。しかし、この神様の憐れみがあるがゆえに、こんな汚点だらけの自分も生かされているのであり、また悪に対する神様の裁きを信ずるがゆえに、真実に人生を生きていこうとする力が与えられるのです。「建て前と本音の使い分けによる二重生活ではなく、現実に信仰者として、この世で生きて行こうとするならば、この矛盾によってのみ支えられるのではないか。本当に信仰をこの実人生の中に生かして生きようとするならば、この矛盾の中に生かされるしかないのではないか。これを下手に解消することなど、私たち人間の側で考えてはならないのだ」と内坂先生は述べておられます。
  このクリスマス、御子イエス・キリストの御降誕に思いを馳せると共に、十字架と復活にまで至るその生涯に改めて思いを向けましょう。そして、そこに現れてくる神様の矛盾、その恵みをしっかりと心に受け止めたいと思います。本来であるならば滅ぶべきこの身がただただ神様の憐れみによって生かされている。イエス様の十字架がそのことを可能にしている。その恵みを本気で受け止めて、罪に開き直るのでもなく、どうしても正しく生きることができないという重圧に潰されるのでもなく、感謝の内に神様の憐れみにすがっていきたいと願います。そうして、神様の御心を求めて真実に人生を生きていきたいと願います。
  願わくは、今からおよそ2000年前に私たちの救いのためにこの世に降りて来てくださった御子イエス・キリストに栄光が代々限りなくありますように。イエス様への感謝と讃美の内にこのクリスマスの時を過ごしていきたいと願います。

 
 
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