2021年 1月 3日(日) 降誕節第 2主日礼拝説教
 

「愛を受ける時にも」
 コリントの信徒への手紙一 13章 4〜7節 
北村 智史

  今日は2021年最初の礼拝を神様にお捧げしています。振り返ってみれば、昨年は大きな苦難の年でした。新型コロナウィルスによる感染症が世界中で猛威を振るい、私たちの国日本でも大きな混乱をもたらしたのです。私たちの教会でも、二度に渡って会堂での礼拝を休止せざるを得なくなりました。そのような中にあって、昨年、クリスマスの礼拝をこの会堂で、皆で一緒に神様にお捧げすることができたのは大きな恵みでした。そして、新年の礼拝もこうして皆で神様にお捧げすることができて、神様に対する感謝に堪えません。まだ世間では依然として新型コロナが猛威を振るっていますが、一日でも早くこうした混乱が落ち着きますように神様にお祈りをいたします。世界中の人々皆で助け合い、この危機を乗り越えていきたい、そして、新たに始まったこの年がまことに神様の恵みに溢れた一年となりますようお祈りしている次第です。まだまだ苦難の中にありますが、その先にある希望を信じて、この一年も神様の御用に仕えていきたいと願います。
  さて、昨年の話を致しましたが、そのついでに私個人のお話もさせていただければ、昨年の12月は一つの試練がありました。目の上のちょっとした傷口からばい菌が入ってしまいまして、大きく膿んでしまったのです。最初は薬で散らそうということになったのですが、どんどん腫れがひどくなる一方で、痛みで夜も眠りづらくなってまいりましたので、切ることになりました。そこからは痛みも引き、随分と楽になったのですが、傷口を開きっぱなしにして膿を出し切るまでの間は不便な生活を強いられました。一番困ったのは、頭を洗う時です。目の上に大きなガーゼを貼られてしまいましたので、それを濡らさないように洗うのが非常に難しく、妻に手伝ってもらいました。
  妻に頭を洗ってもらっていますと、なんだか介護を受けているような気分になってきまして、「40年後、50年後はこんなふうになっているのかなあ。なるべく健康寿命を長くして、妻に迷惑をかけないようにしよう」とか、色々なことを考えさせられました。そして、今回こんなふうに色々な面で妻にお世話になるけれども、感謝の気持ちを忘れないようにしようと思わされたのです。と言いますのは、これまでの牧会生活を通して、私は色々な方の介護にまつわる苦労話を聞いて来たからです。
  介護される者はだんだんと自分ができることが少なくなっていく。人の世話にならなくてはいけない。その痛みは大変大きなものです。そのことが寂しく、悲しく、プライドが傷つけられてしまう。そのため、そのイライラを介護してくれる者にぶつけてしまうということが少なくないようです。「こんなことをして欲しいんじゃない。もっとこうしろ。ああしろ。気が利かない」と介護する者を激しく責め立てる。そのため、周りが振り回された。介護をする時に大変な思いをした。そういう話を私はこれまでたくさん聞いて来ました。
  だから今回、私がどれだけ痛い思い、大変な思いをしても、そのイライラを妻にぶつけるようなことはしないようにしよう。心にゆとりがない時でもいつも感謝の気持ちを忘れずに、妻がしてくれることを受け止めようと心に決めていました。よくしんどいことが起こった時には、些細なことで夫婦の間で喧嘩が起きたりするものなのですが、そのおかげで今回は喧嘩もなく、夫婦力を合わせて治療に励むことができたと思います。
  そして学ばされたのが、今日の聖書箇所でした。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。「忍耐強い」という言葉に始まり、「すべてに耐える」という言葉で終わるこの御言葉は、私たちが愛する時の姿勢について教えているのだと私はこれまで考えていました。それはそれで間違いではないのでしょう。
  愛には相手がある。その相手が、いつも私たちの好きな人とは限らない。いや、好きな人に限ってはいけない。嫌なことをしてくる人もいる。嫌いな人だっている。そんな人を愛そうと思ったら、当然苛立ちや恨み、妬みといった気持ちが起こってくる。私たちが愛を行う時には、そうした気持ちをぐっとこらえ、そうした気持ちに打ち勝たなければならない。また、私たちにはいつも自分を主人とし、自己中心的に物事を考えようとするエゴイズムが付きまとうけれども、そうしたエゴイズムをぐっとこらえて、これに打ち勝たなければ、私たちは愛を行うことはできない。そうしたことを、この御言葉は確かに教えているのでしょう。
  しかし、今回人のお世話になる経験をしまして、私はこの御言葉が決してそれだけを教えているのではないことに気付かされました。実に、今日の聖書個所の御言葉は、私たちが愛される時の姿勢についても教えているのだと私は思います。介護の現場で見られるように、また余裕のない時に見られるように、人は愛する時だけでなく、愛を受ける時にも自己中心的と言いますか、エゴイスティックになることがあるのですから。このことについて、加藤常昭先生は、『老いを生きる』という本の中でこんな言葉を語っておられます。「愛される時にもエゴイズムは働きます。愛されるとき、みとりを受け入れるとき、わがままは許されると思ってしまうエゴイズムです。自分の欲する通りに愛されたい。愛されるところでも自分は主人でありたい。深いところでそう思っていることが多いのです。人間は、それほど罪深いのです」。
  加藤先生の指摘するこうした罪深さがあるからこそ、私たちは素直に愛を受け入れることを学ばなければならないのでしょう。今日の聖書個所でパウロが「愛は忍耐だ」と言う時、それは人の愛を受け入れる時にも忍耐がいるということを意味しているのです。他人の稚拙な愛の行為、自分が期待していた愛の行為とはまた違う愛の行為をも感謝を持って受け入れる忍耐の心です。
  人、誰しも他人のお世話になる時が訪れます。思いがけず病気をした時かもしれません。年を取って体の自由が利かなくなった時かもしれません。いずれにせよ、そんな時にイライラして、「何でこうしてくれないの、ああしてくれないの」と愚痴ばかり言っていたら、そして喧嘩ばかりしていたら、人は孤独です。それは人を愛せなくなっているだけでなく、愛されることができなくなってしまっているのです。私たちのエゴイズムが、愛されるという状況の中でも噴き出してしまっているのです。先程、私はその人は孤独だと言いましたが、それは自分で造っている孤独に他なりません。
  余裕のない時こそ、また年を取れば取るほど、愛され上手になりましょう。たとえ自分の思う通りの愛でなかったとしても、ぐっとこらえて、相手のその気持ちを感謝を持って受け止めるのです。これまで私はどちらかと言えば人を愛することばかりを説教の中で語って参りました。しかし、豊かに人を愛する人は、同時に愛される人でもなければなりません。新たに始まりましたこの一年はぜひ、愛し上手になると共に、愛され上手な人になることを皆で一緒に目指していきましょう。そうして、愛に溢れた共同体をこの府中の地に築いていきたいと願います。
                祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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