2021年 1月 10日(日) 降誕節第 3主日礼拝説教
 

「光に向かって進め」
 コマタイによる福音書 2章 16〜18節 
北村 智史

  今日は新年2回目の礼拝を神様にお捧げしています。早いもので年が明けてから、10日余りが経過したわけですが、皆さんは年末年始をいかがお過ごしになられたでしょうか。私はと言えば、毎年年末年始の時期は大阪の実家に帰省するのですが、今年は新型コロナが猛威を奮っている影響で、帰省を断念いたしました。家族に会うこともなく、夫婦二人だけの、それはそれでのんびりとしたお休みでしたが、少し寂しさもある、そんな年末年始だったように思います。おそらく私だけでなく、多くの人がこの年末年始、帰省を断念したのではないでしょうか。家族なのに会えない。そんな時期が昨年から続いているわけですが、そのような中にあって気持ちまで離れてしまわないように、連絡を密にするなどして家族の絆をしっかりと大切にしていきたいと願います。ただ今新型コロナが猛威を奮い、緊急事態宣言が発令されて、再び会堂での礼拝を休止せざるを得ない状況になってしまいましたが、願わくは、この病気の流行が収まり、それぞれの家族が再び顔を合わせることのできる日が一日でも早くやって来るように、心を込めてお祈りしている次第です。
  さて、そんな今日はマタイによる福音書2:16〜18をお読みいただきました。ヘロデという王様がベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺してしまうという非常に恐ろしい場面です。では、なぜヘロデはそんな惨いことをしたのでしょうか。      
  実はこのヘロデという王様はものすごく権力欲に取りつかれた人だったんです。自分は苦労して異邦人にもかかわらずユダヤの王様になった、その地位を誰にも奪われたくない、そんな思いが異常に強くて、少しでも自分の地位を脅かしそうな気配のある人々を次々と殺していった、そんな人だったのです。ヘロデのそうした行動はどんどんとエスカレートしていって、彼は身内まで次々と殺していきました。それを知ったローマの皇帝が、「ヘロデの息子であるよりは、豚であるほうがましだ」と語ったとまで伝えられています。ユダヤ人は律法という神様の掟の定めで豚を食べないから、豚であれば少なくとも命を失うことはないという意味だったのでしょう。
  それくらい自分の地位を守ることに執着していたヘロデが、占星術の学者たちから「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」という言葉を聞いたから大変です。「何?私の他に新しいユダヤ人の王が生まれただと。じゃあ、私はどうなるんだ。私に取って代わってそいつがユダヤ人の王になると言うのか。そんなことは絶対にあってはならない。私がユダヤ人の王なのだ。一刻も早くそいつを消さなければ……。」ヘロデはそんな思いに囚われました。そして、軍事力を使って「新しいユダヤ人の王」が生まれるとされていたベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。
  「何て恐ろしいことを……」と思わされる出来事ですが、しかしこうした出来事が聖書に記されるのは何も初めてのことではありません。旧約聖書の出エジプト記には今日のお話とよく似たお話が出てきます。イスラエルの民がまだエジプトの奴隷だった頃、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」というエジプトの王ファラオの命令で、イスラエルの男の子たちが殺されたというお話です。
 
イスラエルの民が増えすぎて危険分子になりかねないから、事が起こる前にイスラエルの男の子を殺してしまおうというファラオの考えと、自分がユダヤの王なのに新しいユダヤの王、メシアが生まれるなんて、自分の王位が危なくなるかもしれない、その前に殺してしまおうというヘロデの考えはまるでそっくりです。結局、人は力と権力を追い求める生き物であり、その自分の地位が脅かされるとなると、力でもってその存在を排除しにかかる生き物なのです。何人人が死んでも、自分は、また自分たちは力と権力を持って生きていたいと願う人間の罪。こうした人間の罪を打ち砕くために、イエス・キリストは今からおよそ2000年前にあえて赤ん坊という全く無力な姿を取られてこの地上に降りて来てくださったのだと私は思います。
  イエス様の生涯に、力や権力を追い求める姿はまるで見られません。イエス様の生涯、それは上にある力や権力を望むのではなく、低きに降られる生涯に他なりませんでした。家畜小屋の飼い葉桶の中というこの世の最も貧しい所に赤ん坊という姿でお生まれになり、貧しい者、悲しむ者、苦しむ者、社会から疎外された人々に徹底して寄り添って生きられました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と弟子たちにお教えになり、御自身、十字架の上で自らを犠牲にして皆の救いのためにお仕えになられました。
  イエス様の生涯を振り返りますと、力や権力ばかりを追い求めて争いばかりしている私たちに、「本当にその生き方でいいのか」と問いかけるイエス様の御声が聞こえてくるような思いがいたします。「あなたも自分の十字架を背負って私に従いなさい」、「私の生き方に倣い、互いに仕え合う道を通して神の国を成し遂げていきなさい」。そう言われているみたいです。  しかし、「暗闇は光を理解しなかった」、「人々は……光よりも闇の方を好んだ」とヨハネによる福音書は語っています。結局、人々はこの世に光をもたらすイエス様に背を向け、その生き方にも背を向けて、そして福音にも背を向けて、力や権力ばかりが追い求められる、そして愛のない争いばかりが繰り広げられる暗闇の生き方の方を選択しましたし、今も選択し続けています。そのために、世界はいつまで経っても神様が望まれる姿にはなっていません。
  そのような中にあって、私はこの新しい年、改めて「光に向かって進め」と強く訴えていきたいと願います。光の方角、イエス様が諸手を広げて待っていらっしゃる方角、それは私たち人類が銃や爆弾といった力や権力への志向を一切捨ててしまう方角に他なりません。 
  実は、今日説教題にもいたしましたこの「光に向かって進め」という言葉は、1945年8月6日に広島で被爆したサーロー節子さんが2017年12月にノーベル平和賞受賞式で語ったものです。節子さんは原爆が炸裂した広島の街で崩れ落ちた建物の下敷きになり、身動きが取れない中で誰かの声を聞きました。「諦めるな。頑張って押し続けろ。助けてやる。あの隙間から光が見えるだろう。急いで這っていけ」。「光に向かって進め」。その誰かも分からない者の声は瓦礫の下にいた彼女を励ました言葉であり、核廃絶に向けた決意の言葉となりました。節子さんはスピーチの中で「核兵器開発は、その国の偉大さを高めるのではなく、その国が暗黒の深みへと転落することを意味しています。このような兵器は必要悪ではありません。絶対悪なのです」と訴えています。
  サーロー節子さんのこのお話を説教集の中で紹介しておられるカンバーランド長老キリスト教会国立のぞみ教会牧師の唐澤健太先生は続けてこのように書いておられます。「『暗黒の深みへ転落』する世界に私たちも生きています。人間の罪に押しつぶされて、身動きが取れずに喘いでいます。しかし、光は確かに差し込んでいるのです。……キリストの光が、真理の光が全世界にすでに輝き出しているのです。『光が見えるだろ?』私たちに語りかける声を私たちも確かに今日、聞いているのです。光が、キリストを通して確かに私たちにも見えるのです」。
  願わくは、2021年、この光を私たち、見失うことなく歩んでいきたいと願います。イエス様の生涯を仰ぎ見て、人を押しのけ、傷つける力や権力ばかり追い求める私たちの心をしっかりと悔い改めましょう。そして、イエス様が教えてくださった愛の心、互いに仕え合う心で、皆で光に向かって進んでいきたいと願います。

        祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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