2021年 1月 17日(日) 降誕節第 4主日礼拝説教
 

「絆を取り戻そう」
 マタイによる福音書 3章 13〜17節 
北村 智史

  教会には、洗礼という大切な儀式があります。ある人がクリスチャンになるときに行われる儀式で、「父と子と聖霊のみ名によって、バプテスマを授ける」という言葉と共に頭に水が注がれます。こうして、その人はクリスチャンとして新しく生まれ変わるわけですが、こうした洗礼という儀式は昔から行われていまして、聖書にはイエス様も洗礼を受けたという記事が出てきます。それが、今日の聖書個所です。
  これを読めば分かる通り、昔は洗礼という儀式は、川にザブンと全身を沈めて行われていたんですね。今もキリスト教の教派によっては、そのやり方にこだわっているところもあります。頭に少しの水を注ぐだけのやり方、(「滴礼」と言うんですけれども、)このやり方では洗礼とは言えない。川や水槽などの水にザブンと全身を沈めなければ洗礼とは言えない。そう主張している教派もあるんですね。
  では、なぜ「滴礼」ではいけないのか。イエス様が受けられたみたいな洗礼、すなわちザブンと水に全身を沈める洗礼に拘るのか。それは、洗礼には溺死するという意味合いが込められているからです。あまりにも長い間、大量の水の中に沈められていると人間は死んでしまいます。そのように罪を持った古い自分に死に、神様のもとにある新しい自分、新しい命に蘇るという意味合いが洗礼には込められているのです。「滴礼」のような、少量の水を受洗者に注ぐだけのやり方では、どうしてもその意味合いのイメージが薄れてしまう。だから、バプテスト派などの教派は今でも「全身礼」ですね、大量の水の中にザブンと全身を沈める洗礼に拘っているわけです。
  大切なのは、そういう溺死するという危険な経験を経て、新しい命に蘇った者が、洗礼を受けた後のイエス様と同じ御声を神様から聞く経験をするということでしょう。実に、洗礼というのは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられる神様の御声を、全身を持って受け止める経験に他なりません。私たちは洗礼を通して、自分が神様に愛されている存在であること、それもイエス・キリストという神様にとってたった一人の子どもを十字架につけても惜しくないというくらい、それほどまでに愛されている存在であることを知ります。と同時に、その愛は自分の隣人にも及んでいることを知ります。そして、自分を愛し、隣人を愛し、神様を愛する者へと変えられるのです。
  今は自分で自分を愛することが決して当たり前のことではない、そんな世の中ですが、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の愛の御声をどこまでも広く人々の心に届かせていきたいと願っています。と同時に、自分の隣人も神様に愛されている存在であるという認識を広めて、人と人同士の絆も深めていきたいと願っています。特に人と人同士の絆を深めるという使命は、新型コロナで至るところに分断が生じている今、社会で最も必要とされている使命だと言えるでしょう。
  このことに関連して、この間教会に送られてきたキリスト教カウンセリングセンターの機関誌に、今新型コロナのために引き起こされている社会的な分断のこんな報告が載せられていました。
  「感染リスクへの恐怖から、感染者に対するあからさまな差別的対応、感染者を出した施設や店舗などに対する残酷なバッシングがあり、医療関係者とその家族に対するいじめがあることが報告されています。残念なことに家族・親族の間でもこうした問題が起きています。進学で東京に出て来た大学生が孤立している事例はたくさんあります。新年度になっても授業が開講されず、ようやく始まったと思ったらすべてオンラインで行われ、サークル活動もできずアルバイトもできないので新しい人間関係を築く機会が全くない。オンラインで授業を受けるのであれば東京にいる必要はないので故郷に戻ろうと思っていたところ、『家には帰って来るな。東京から帰ってきたと近所に知られたら何を言われるかわからない。』と実の親から帰宅を拒否されたという話があります。また最近こういう話を聞きました。ある大学のボランティア・サークルが毎年12月に被災地の子どもの施設を訪問していましたが、今年はそれができないので、せめてクリスマスカードとプレゼントを贈りたいと施設側に申し出たところ、責任者の人から『東京からですか?でしたらお断りします。』とけんもほろろに断られたという話を聞きました。」
  まさに人々の絆が分断されている報告です。そのような中にあって、私は改めて人と人同士が神様の愛、その絆で結ばれることを強く訴えていきたいと願うのです。奇しくも、今日は阪神淡路大震災の記念日です。今からおよそ26年前、1995年1月17日に、神戸の街は地震により瓦礫と化し、多くの人々が犠牲になりました。しかし、そのような中を、人々は助け合って復興に向けて懸命に歩んできたのです。全国各地から被災地の復興のために物資的な援助や経済的な援助が為されました。そして、人的な援助であるボランティアの人々も全国からたくさん集まって来ました。若い世代もシニア世代も積極的にボランティアに参加し、地域を超え、世代を超えて多くの人々が絆を結び、復興への道程を共に歩んできたのです。今では、地震が起きた1995年は「ボランティア元年」と呼ばれています。
  東日本大震災の時もそうです。あれほどの絶望と悲しみの中を、私たちは「絆」をスローガンに連帯し、支え合って来たはずです。このようにして築き上げてきた人と人との絆を、今回、新型コロナで崩してしまうようなことがあってはなりません。
  先程の報告を書いたキリスト教カウンセリングセンター研修所長の吉岡光人先生は書いておられます。「今、全体が強いストレスの中に置かれているこの状況の中で、多かれ少なかれ誰もが不安を感じて生活しています。そういう時だからこそ、人と人との『絆』とは何なのかを今一度考える必要があろうかと思います。ちょっとやそっとでは切れることのない絆を結んでいくために何が大切なのか、今はそのことを考えるよい機会でもあると思います」と。
  まだまだ新型コロナの混乱は続いていくことと思いますが、そうした中を私たち、分断されないように改めて絆についてしっかりと考えていきましょう。ちょっとやそっとでは切れることのない絆を結んでいくために大切なもの。それは神様の愛です。私も、目の前の人も、共に神様に愛されているという意識です。私たちが神様の愛によって結ばれている限り、絆が切れてしまうことはありません。まだまだ先の見えない中ですが、神様の愛の絆によってしっかりと結ばれて、皆で一緒にこの危機を乗り越えていきたいと願います。
      祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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