2021年 1月 24日(日) 降誕節第 5主日・教会創立記念日礼拝説教
 

「信仰の柔軟さ」
 マルコによる福音書 2章 23〜28節 
北村 智史

  今日はこの教会の創立記念日の礼拝を神様にお捧げしています。1947年1月25日に、東京府中教会は初代牧師の大久保末先生の手によってこの府中の地に創立されました。以来、最初に建てられた宮町の場所から今の八幡町に場所を移すというような変化はありましたが、74年間、私たちの教会はこの府中の地でずっと宣教を行ってきたわけです。これまで、どんなことがあっても礼拝の灯を絶やさずに来たというのが私たちの誇りでした。
  しかし、今、私たちは未曽有の事態に直面しています。昨年から新型コロナのために、3度にわたって会堂での礼拝を休止せざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。今日も教会創立記念日の礼拝を、このようにオンラインで執り行っているわけですが、こうしたことは今までにはなかったし、想像したこともなかった経験です。昨年から神様のお導きを祈りつつ、まさに手探りで対応を進めてきたわけですが、私はこの教会創立記念日に、ただその経験を悲しむだけではなくて、そうした経験から私たちが学んだことは何か、改めて考えて、この経験をも教会の財産に変えていきたいと願うのです。
  さて、そんな今日は聖書の中からマルコによる福音書2:23〜28を取り上げさせていただきました。イエス様がファリサイ派の人々と安息日について論争された場面です。
  発端は、ある安息日に、イエス様が麦畑を通って行かれた時に、弟子たちが歩きながら麦の穂を摘み始めたことでした。申命記23:26に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」と記されているように、他人の麦畑で穂を摘むこと自体は律法で許されていたことであり、咎められることではありませんでした。問題は、弟子たちがそれを安息日に行ったということにあります。律法では「安息日にこれをしてはならない。あれをしてはならない」と、細かくしてはならない仕事が定められていて、刈り入れの作業もその一つに当たるものでした。ファリサイ派の人々はイエス様の弟子たちが手で麦の穂を摘んだ、その行いを刈り入れの作業と見なして、「律法で禁止されていることをしている」とイエス様に警告を与えてきたのです。律法では、あらかじめ警告を受けていたにもかかわらず安息日の戒めを破った者は石打ちの刑に処せられることになっていました。「弟子たちがこのまま律法違反を続けるなら、あなたたちを石打ちの刑にしますよ」。
そんな脅しに、イエス様は言われます。「聖書には、ダビデが自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だった時に、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを食べたという記事が記されているではないか。このように聖書がダビデの行ったことを認めているのだから、律法はあなたたちが考えているように解釈するものではないのだ」と。律法というのは、文字に拘って守ることが大切なのではない。それが定められた根本的な精神を理解した上で、その精神に沿って守るべきなのだ。それが、イエス様の主張でした。そして、イエス様は言われます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。イエス様にとって、安息日を初めとした律法は、神様のもとで人がまことに人間らしく、本来の姿で輝いて生きていくために定められたものでした。つまり、律法は人をまことに生かすために定められたものだったのです。従って、人間がそれを守るために束縛され、餓死しなければならないというようなものでは決してありませんでした。律法の規定が人間を圧迫するようになり、人間の幸福を妨げるようなことになってしまった場合は、あえてそれを無視するなど柔軟な解釈をすればよいのだ。これがイエス様の主張です。そして、「人の子は安息日の主でもある」と、御自分が安息日を初めとする律法を定められた神様の御意志に従い、安息日を初めとした律法に関して正しい解釈を下す能力があり、正しく適用する権威を持っておられることを宣言されたのです。
  これが今日の聖書個所ですが、この箇所は、今回の新型コロナ禍の中で会堂での礼拝をどのようにしようかと悩んだ時に私に大きな示唆を与えてくれました。集まることが人の命を脅かすことになる。一度感染者が出れば、私たちの命はもちろん危険にさらされるし、地域の人たちの命だって危険にさらされることになる。そのような中で、全国の教会が会堂での礼拝をどうするか選択を迫られました。「戦時中だって、震災の時だって礼拝の灯を絶やさずに来たのだから、会堂での礼拝を続けたい」。そのように主張されるその方の気持ち、それくらい会堂での礼拝を大切にされるその方の気持ちは痛いほど分かります。長年信仰を紡いできた礼拝堂に愛する信仰の家族皆で集まって神様に礼拝をお捧げする。そこには大きな意味があるはずで、そんなに簡単にそれを取り止めていいものではない。それはその通りでしょう。しかし、人の命が脅かされる、そして私たちも被害者になるだけではなくて加害者になるかもしれないという今回の状況においては、やはり冷静な判断が求められると私は思いました。
  今回の新型コロナ禍の中で会堂での礼拝をどうするべきか、悩んで色々な牧師に考えを伺いましたが、中には「礼拝は命よりも大事だ」、「人の犠牲なんて二の次。神様の事を最優先にしなければならない」と仰る方もおられました。今回のことに限らず、台風、洪水などの災害の警報が出されて、会堂での礼拝をどうしようかという時にも必ずこういう意見が出てくるのですが、しかし、私はこれには毎回首を捻ります。
  いつだったか、こんな話を聞いたことがあります。台風で教会の近くの川が決壊しそうになる中、日曜日がやって来た。特別警報が出され、「命を守る行動を取ってください」という呼びかけが為され、皆が避難所に避難する中、一人の人がそれでもいつもの礼拝の時間に礼拝にやって来た。すると、台風が収まった次の主日の礼拝後にその教会の牧師がその人を立たせて拍手でもって賞賛し、「礼拝は命よりも大事だ。神様よりも自分の命を優先するなんて何事だ」と言って他の教会員を戒めたそうです。
  私はそれを聞いてものすごく違和感を感じて、やはり首を捻りました。それは誤った敬虔さと言いますか、何か敬虔さというものを勘違いしているのではないか、そのように思わされたのです。今日の聖書個所の中でイエス様は仰っています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。旧約聖書には、安息日の規定は天地創造と出エジプトの出来事を記念するために定められたと記されていますが、イエス様のこの御言葉からは、それも人間が神様のもとで、神様に対する感謝と讃美の内にまことに本来の姿で輝いて生きていくためだったことが良く分かります。実に、安息日は人が生きていくためのものに他なりません。人間が神様の事を覚え、感謝と讃美を捧げながらその御心に沿って輝いて生きていくために定められたものなのです。このように、安息日が人を生かすものである以上、安息日を守るために人が犠牲にならなければならないなどという解釈は、神様、イエス様の本来の意図とは異なると言いますか、律法主義以外の何ものでもないと言うことができるでしょう。
  「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。であるならば、その礼拝の実施が人間の命を脅かすような状況になってしまった場合は、それぞれのご自宅で心を合わせて神様を礼拝するようにするなど、柔軟な対応が許されるはずです。このような示唆を受けまして、東京府中教会では今回の新型コロナ禍の間、人の命の危険が脅かされると判断した期間は、牧師家族だけで守った会堂での礼拝を動画で配信し、それを教会員皆さんがそれぞれのご家庭で主日に視聴していただきながら、心を一つにして神様を礼拝するというふうにいたしました。それは律法主義に囚われない、非常に柔軟な対応であり、神様の御心に適うものであったと考えています。
  そして、私はこの信仰の柔軟さを、今回の経験の中で私たちがつかんだ財産としてこれからも受け継いでいきたいと考えています。これから先も、例えば災害で特別警報が出された時など、主日の会堂での礼拝に人々が集まるのが危険な場合というのが出てくるかもしれません。その時に、今回の経験を活かして、今回と同じように動画を配信し、それぞれのご家庭で礼拝をお守りいただくようにするなど、私たちは柔軟な対応ができるはずです。新型コロナという未曽有の経験、その経験も一つの糧としながら、これからもこの府中の地で、皆で一緒に神様の愛と福音とを宣べ伝えていきたいと願います。
            祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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