2021年 2月 7日(日) 降誕節第 7主日・礼拝説教
 

「価値なく思えても」
 マタイによる福音書 4章 12〜17節 
北村 智史

  先月の7日に、政府から緊急事態宣言が出されました。それからちょうど一月が経過したわけですが、皆さんはこの間をいかがお過ごしだったでしょうか。東京府中教会では1月10日から会堂での礼拝を再び休止しまして、皆さんにはそれぞれのご自宅で礼拝をお捧げいただくという形を取りました。それぞれの場にあって、神様が親しく臨んでくださったことと信じていますが、神様に礼拝をお捧げする時に、隣に教会の仲間がいないのはさぞかし寂しいことだっただろうなとお察しいたします。本来ならば次週の礼拝から会堂での礼拝を再開する予定だったのですが、2月2日に政府が緊急事態宣言を延長するということを発表しまして、今日の役員会で決定をいたしますが、東京府中教会でも会堂での礼拝の休止を延長することになりそうです。まだしばらく皆様に寂しい思いをさせてしまいますが、神様が再び会堂で愛する信仰の家族と共に礼拝を捧げさせてくださる日が来ることを信じて、もうしばらく忍耐の時を過ごして参りたいと存じます。
  さて、そんな今日は聖書の中からマタイによる福音書4:12〜17を取り上げさせていただきました。ここに記されているように、イエス様は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、御自分の宣教を始められたのです。大切なのは、イエス様がこのように宣教を始められたのが、イザヤ書で預言されていた「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」だったことでしょう。
  イスラエルの歴史において、このガリラヤは異邦人が多く住んでいた辺境の地であり、軽んじられていた土地でした。そのことを裏付けるように、聖書には、たとえば福音書の中にも、イエス様に縁のあるガリラヤとかナザレとかいった土地が軽蔑されて語られている箇所がいくつも出て参ります。たとえばヨハネによる福音書1:46では、イエス様を紹介されたナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と語っています。また、同じ福音書の7:52には、ユダヤ人指導者たちが「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と語ったことが記されています。
  このように軽蔑されていた土地の中で、イエス様はとりわけ病人や障がい者、徴税人など、当時「罪人」とレッテルを貼られてしまっていた人々、軽んじられていた人々と交わりを持たれました。価値がないと思われていたガリラヤ、そして小さくされた人々のもとにイエス・キリストはやって来られたのです。そして、そこで最初の福音が宣べ伝えられました。
  ローマの信徒への手紙1:16には、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」であるというパウロの言葉が記されていますが、ガリラヤの小さくされた人々を救う福音であるからこそ、それはまたすべての人々を救うことのできる福音なのでしょう。
  今回、私が参考にした注解書を書いた牧師は、こんなことを語っています。「神の救いのわざがガリラヤから始まったことは、たんに歴史的事実である以上に、福音の真理として、また宣教の指標として、私たちがつねに心に留めておかなければならない原点である。私たちキリスト者にとって、『ガリラヤ』は決して単なる地名ではない。マタイ福音書によれば、主イエス・キリストは復活された後、弟子たちに向かって次のように伝言させた。『わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』(28・10)弟子たちはその言葉どおりガリラヤに行き、そこでイエスと再会する。そしてそこから『すべての民』のもとへ、世界の果てにまで遣わされていったのであった。福音の宣教はつねにガリラヤから始まる」。
  ガリラヤこそ私たちの宣教の原点。そのことをいつも忘れないようにしたいと思います。イエス様が弟子たちにお選びになった人々が決して当時のエリートではなかった、漁師であったり、徴税人であったり、「熱心党」と呼ばれる過激派グループのメンバーであったりと、当時の社会からは端に追いやられていた、そしてイエス様逮捕の時には皆逃げだしてしまうなど、人間的な弱さもたくさん抱えていた、そんな人たちだったこととも考え合わせれば、福音の宣教は小さくされた人々の救いのために、小さくされた人々の現場から、弱さも欠けも抱えた、そして価値なきと思われる人々の手によって進められていくのです。そのことをいつも胸に刻んでおきたいと願います。
  特に今は過剰な競争社会であり、自己肯定感の持てない人が多い、そんな社会ですから、私たちもともすればこんな自分が救われるのか、神様に愛されるに値するのか、そしてクリスリャンとして神様の御用に仕えて生きていけるのか、そういった不安に苛まれてしまいます。しかし、どれほど自分で価値なく思えても、また弱さと欠けに溢れていても、そんなあなたを神様はお選びになって愛してくださる、救ってくださる、そして御自分の御用のために強めて豊かに用いてくださるのです。
  先程の牧師は書いています。「迷うとき、絶望するとき、進むべき方向がわからなくなったとき、私たちはいつもガリラヤへと戻ろう。そこではいつも主の第一声が響き渡り、主の慰めと励ましが満ち溢れている。そしてそこで私たちは立ち直り、そこからこの世へと派遣されていくことになるのである」と。弱さも欠けも抱えた、価値なく思えるこの身ではありますけれども、ガリラヤという私たちの宣教の原点を忘れずに、「そういう自分をこそ神様は豊かに用いられる」という思いで、小さくされた人々の救いのために生涯を過ごしていきたいと願います。
             祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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