2021年 2月 14日(日) 降誕節第 8主日・礼拝説教
 

「疑いについて」
 マタイによる福音書 14章 22〜33節 
北村 智史

  皆さんは信仰生活を続けている中で、神様のことが信じられなくなってしまったというような経験はないでしょうか。私はと言えば、牧師という立場上、そんなことは一度もないと胸を張って言いたいのですが、そんなことはなくて、これまで神様の御心が見えないと言いますか、神様のことが分からなくなってしまった、そんな経験が幾つも思い浮かびます。たとえば、東日本大震災の時です。大勢の方が犠牲になったその悲劇を前に、私は神様がいらっしゃってなぜこんなことが起きてしまうのか、心をかき乱されました。
もちろん、それまで神様のことがよく分かっていたというつもりはありません。神様は人間を遥かに超越したお方であり、私たち人間には理解し尽くせないお方です。ですから、神様については分からないところがあるのは当然。それはよく分かります。でも、目の前のあまりにも理不尽な出来事に、どんな深い目的、どんな深い御心があればこうした出来事を正当化できるのかと、あまりにも神様のことが分からなくなり過ぎて、私は混乱してしまいました。
  このように、私たちの人生には思いがけない危機があり、私たちはしばしば神様のことを疑います。それはとても辛い経験です。しかし同時に思うのは、それははたして不信仰として批判され、退けられてしまうべき経験なのかということです。それはむしろ私たちの信仰にとって必要な経験ではないのか、私たちの信仰は何度も疑い、砕かれることを通して本物になっていくのではないのか。今日はそういうお話をしていきたいと考えています。
  さて、先程お読みしました聖書個所はマタイによる福音書14:22〜33です。この個所を読みますと、私はいつも心に浮かぶ聖書個所があります。それは、イザヤ書30:15です。「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」。この御言葉から私たちが知ることができるのは、信仰とは神様に対して「安らかに信頼する」という姿勢であり、またその決意であるということです。この信頼に失敗した時に、イスラエルは繰り返し神様ではない人間の力や偶像に寄り頼んで、自らを欺き、裁きを引き寄せる結果を招いたのでした。今日の聖書箇所でも、ペトロは主の招きに対する信頼に疑いを抱き、水の中に沈んでしまいます。そこで言われたイエス様の一言が、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というものでした。
  皆さんはイエス様のこの言葉を聞いてどう思われるでしょうか。「ああ、やはり疑うということは信仰が薄いということであり、それは神様に咎められてしまう行為なのか」とお考えになるでしょうか。しかし、今日の聖書個所の状況の中で、ペトロが恐怖に襲われて、一瞬でも疑ってしまったのは、私は無理もないことだったと思うのです。夜明けの湖の上、足下には底の知れない暗い水面が広がり、「強い風」は激しく吹き荒れる。イエス様のそのお姿もはっきりとは見えない。こうした状況の中で誰が恐れずにいられるでしょうか。そうした中で、「まったく疑うな。それは罪だ」と言われたなら、私は、それは神様に無茶な要求をされていると思うのです。
  そもそも「まったく疑いのない信仰」というものがあり得るのだろうかと私は思います。もしあるとしても、それは神様を信じるのに都合の悪い現実に無理やり蓋をしてばかりの危うい、また不自然な信仰ではないでしょうか。そうした信仰を持つように勧めることが、今日の聖書個所の目的ではないと私は思います。信仰が神様を信頼する決意であるとすれば、そこには常に私たちの側の決断と意志が含まれることになるでしょう。信仰とは、疑いに揺れ動く思いの中で、「あえて信じる」ということなのではないでしょうか。
  ある牧師は、今日の聖書個所の注解の中でこのように書いています。「私たちは自分の足下に広がる暗い湖と『強い風』を無視することはできないし、無視すべきでもない。疑いは私たちが信仰者として歩み続けようとするとき、どこまでもついてくる。この事実を知ることは大切である。だがしかし、それ以上に大切なのは荒れ狂う湖の上に主もまた立っていてくださるという事実を知ることなのだ」。まことにその通りだと思います。不自然に疑いの気持ちに蓋をしてしまうことなど、神様の御心ではないでしょう。信仰者として人生を歩んでいたら、その荒れ狂う波に恐れも出てくる。疑いの気持ちも出てくる。しかし、そこに御自分が共に寄り添っておられるその事実を知って欲しい。そして、揺れ動く思いの中で「あえて信じる」という決断をして欲しい。それが信仰というものであり、イエス様が私たちに望んでおられることだと私は思うのです。
  今日の聖書個所の中でペトロは言いました。「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と。「あなたが命じるならば私にも歩けるでしょう。信じる者となれるでしょう。そうしてください」。ペトロはそう言ったのです。ペトロのこの言葉からは、信仰というものが究極的には神様の恵みの業であり、愛の贈り物であることが良く分かります。様々に揺れ動く思いの中で、それでも神様が「あえて信じる」という決断を私たちにさせてくださらなければ、私たちは信仰を持つことができないのです。
しかしながら、神様はそんな私たちを決してお見捨てにはならないお方です。後年、獄中に閉じ込められて、そこから奇跡的な形で解放されたペトロはこんな言葉を語っています。「今、初めて本当のことが分かった。主が……わたしを救い出してくださったのだ」と。けれども、使徒言行録12:11のこの発言に至るまで、ペトロはどれほど主を疑い、主を裏切り、不信仰に陥ったことでしょうか。しかし、そんなペトロを、神様は決してお見捨てにならず、救いの確信にまで導いてくださいました。同じように、神様は私たちを決してお見捨てにならず、救いの確信にまで導いてくださいます。「今、初めて本当のことが分かった」と私たちが心の底から叫ぶことができるようになるその時まで、神様は繰り返し私たちのもとにやって来てくださいます。そして、この不信仰な私たちに、「それでも信じる者になる」という奇跡を引き起こしてくださるのです。
  大切なのは、疑いの気持ちに蓋をしないこと。その時にもイエス様が私たちと共にいてくださると信じて、そのイエス様の御手に自らを委ねること。疑うたびに、イエス様に導かれ、砕かれて、より強い信仰、救いの確信を与えられていきたいと願います。
  祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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