2021年 2月 28日(日) 受難節第 2主日・合同礼拝
 

「聖人病に気をつけよう」
 ヨエル書 2章12〜17節 
北村 智史

  2月17日の「灰の水曜日」からレントに入りました。今、私たちはイエス様の御受難を思い起こし、イエス様をそのような目に遭わせた私たち人間の罪を深く悔い改める時期を過ごしています。イースターを迎えるための心の備えをする期間として、毎年この時期は大切にされてきたわけですが、この時期に私たちが改めて確認したいのは、イエス・キリストは私たちの弱さや痛みをよくご存じのお方だということです。イエス様は御自分の御受難の経験を通して、人間の弱さや痛みを徹底して経験されました。そのイエス様が、私たちが苦難を経験する時、私たちと共にいてくださいます。苦難の時、困難の時、イエス様はまことの共感を持って私たちに寄り添ってくださる。そうして私たちを力強く支えてくださる。このことを、私は新型コロナの苦難の中にある今こそしっかりと確認したいと思うのです。まだまだ先の見えない苦難が続きますが、今の苦しみをイエス様の御苦しみと重ね合わせて、イエス様と共にこの苦難を乗り越えていく、その思いを新たにしたいと存じます。
  さて、そんな今日は聖書の中からヨエル書2:12〜17をお読みしました。この書物はヨエルという人物に臨んだ主の言葉を書き留めたものとされていまして、内容的には前半の1〜2章と後半の3〜4章の二つに分けられます。前半ではいなごの大群が到来するという主の日の裁きが予告され、祭司や民に罪の悔い改めが勧められています。続く後半ではその悔い改めの祈りが聞き入れられ、神様が歴史に介入される終末の主の日のことが描かれ、霊の降臨とシオンにおける神様の住まいが永遠に続く素晴らしい時代が予告されています。
この預言書が記された時代については色々な説がありますが、おそらくバビロン捕囚よりも後の時代でしょう。私が参考にした注解書では第二神殿の時代、すなわち紀元前6世紀末以降の時代で、紀元前6世紀半ばのオバデヤや紀元前5世紀前半のマラキの影響なども認められることから、おそらく紀元前450〜400年頃のものだろうとされていました。
  これが事実なら、バビロン捕囚後の時代、捕囚からの帰還を果たし、壊されたエルサレムの神殿も再建したとはいえ、依然として他国の支配が続く時代にこの「主の日」のメッセージが記されたことになります。おそらくいなごの大群の襲来というのは、他国の侵略軍の襲来を表しているのでしょう。神様が裁きを為さる「主の日」が近づいている。過去に経験したバビロン捕囚や今経験している他国の支配から分かるように、それは今実際に起こり始めている。それゆえ、民族皆で神様に背いた罪を悔い改めよう。そうすれば、憐れみ深い神様は御自分の民を顧みられ、歴史に介入し、諸国民を裁いて、その結果敵は滅び、神様のもとイスラエルが独立して繁栄する終末の「主の日」、救いの日がやって来る。ヨエル書の著者はこうしたメッセージで、圧迫された人々に大きな希望を与えたのでした。
  これがヨエル書ですが、今日の聖書個所はその中でもイスラエルの人々皆に悔い改めを勧める箇所になっていまして、このレントの時期によく読まれる箇所になっています。かつてイスラエルの人々がこのようにして悔い改めたように、今の私たちも神様に背く己の罪をしっかりと悔い改めよう。そうした意味を込めてこの箇所が良く朗読されるのだと思います。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」。「衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け」。これはまさに今の私たちに対する神様の言葉でもあるのでしょう。このレントの時期というのは毎年やって来るものですから、「はいはい。今年もね」ということで、私たちのこの時期の悔い改めはともすれば形式的なものに堕してしまいがちですが、そうしたうわべだけの悔い改めではなくて、徹底した回心、悔い改めが求められています。
  しかしながら私たちと言えば、己はいつも正しいと思い込んで、人を裁くことに躍起になっているような、そんな有り様です。それはまるで「己は聖人、周りは罪人」と言わんばかりの態度です。何かあればいつもおかしいのは相手、自分は正しいと思いたがる。そうして、ちっとも己の罪を悔い改めない。私はこれまで説教の中で、そうした「聖人病」を悔い改めるように何度も訴えてきました。
  しかし最近、今は亡くなられたノートルダム清心学園元理事長の渡辺和子さんのご本を読みまして、私たちの間にはこれとは真逆の「聖人病」もあるのだということに気付かされたのです。以下は、渡辺和子さんの言葉です。
  「若い時、聖人と罪びとについて読んだことがあります。私たちの中には、自分だけが聖人で、他は皆罪びとであるかのように振舞う人がいるものですが、その反対もあるということ。つまり、自分は「罪びと」というか不完全で当たり前なのだが、周囲の人々は皆「聖人」でなければならない。したがって、すること、なすこと完全で、私を誤解してはいけないし、私に対して腹を立ててもいけない。私に対していつも笑顔で機嫌よくあるべきだ――なぜならあなたは聖人なのですもの。でも私は違う。私は罪びとなのだから、不完全なところがあっても、大目に見てもらうのが当たり前。機嫌の悪い日もあるし、人を誤解するのも当然、という考え方です。」
  そして、渡辺和子さんはこの手のタイプの「聖人病」ですね、自分を「罪人」にして「自分は不完全であっても仕方ないでしょ」と開き直る、その一方で自分以外の人を「聖人」にして完璧を求める「聖人病」に、自らも若い頃陥っていた事実を報告しておられます。自分には甘く、他人には不寛容なところがあり、母に対しても、また修道院という共同生活の中でも他人のすること、なすことを心の中で批判したり、非難したりして苦しんでいたとのことでした。そんな彼女を救ったのは、次の一言だったと言います。「この世の中に、神以外のものはすべて被造物であり、不完全なものである」。この言葉を聞いて、渡辺和子さんは「ああ、本当にそうだ。人に完全なものを求めてはいけない。人の不完全のあらわれに腹を立てるということは、自分の分際をこえたことなのだと、しみじみわからせてもらった」のでした。
  神様以外のものはすべて不完全なものだから、人に腹を立てるのは分際を超えた思い上がりだという渡辺和子さんの言葉には、自分にも他人にも寛容になると言いますか、赦せるようになるコツのようなものが示されているなと思わされました。
自分を「聖人」に仕立て上げる「聖人病」、自分以外の者をすべて「聖人」に仕立て上げる「聖人病」、いずれも私たちが気を付けなければならない罪の病です。このレントの期間、そうした私たちの罪をしっかりと悔い改めて私たちの人間関係を円滑にしていきたい、そうして、私たちの社会を愛に溢れたものへと変えていきたいと願います。
                祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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