2021年 3月 7日(日) 受難節第 3主日・合同礼拝
 

「我は咲くなり」
 マタイによる福音書 6章1〜4節 
北村 智史

  今週11日は東日本大震災の記念日です。あの忌まわしい震災の日から、今年で10年が経過しました。東日本大震災での死者は震災関連死も含めるとおよそ2万人になります。今も2500人を超える方が行方不明のままとなっており、4万2000人以上の方が避難を余儀なくされています。福島第一原発の処理も課題だらけで、いったいいつになったら終わるのか、先の見えないことを思うと、この震災が決して過去のものではない、今も続いている災害であることを思わされます。今、テレビや新聞などのメディアでは、連日のように東日本大震災のことが報道されていますが、この時期に、私たち、亡くなられた方々の魂の平安を改めてお祈りすると共に、被災地に継続して寄り添っていく、その決意を新たにしたいと存じます。
  さて、今日は聖書の中からマタイによる福音書6:1〜4をお読みしました。この中でイエス様は仰っておられます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と。
  実はユダヤ人たちは、「施し」と「祈り」と「断食」、この三つを生活の中で特に大切にしていたんですけれども、ファリサイ派っていう律法を熱心に守っていたグループ、また律法学者と呼ばれる律法の専門家たちの中には、この三つの行いを見せびらかす人がいたんです。彼らは施しをする時には、人から褒められようとして、人目に付きやすい会堂や街角で自分に注意を引きながらこれを行いました。また、今日の聖書箇所には記されていないんですけれども、6:5には、彼らが祈る時にも人に見てもらおうとして、人が大勢集まる会堂や大通りの角に立って祈っていたことが記されています。また6:16には、彼らが断食をする時にも、「よくやっている」と思われようとして、あえて沈んだ顔つきで、顔を見苦しくして行っていたことが記されています。
  イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちのこうした態度を、「偽善者」として厳しく非難されました。「施し」や「祈り」、「断食」、こうした善行は神様に対してするのであって、人々の賞賛を得るためにするものではない。そんな風にして自分が栄光をいただくことに躍起になってはならない。ただ自らの行いを通して神様に栄光を帰すことを考えて、黙ってひっそりと行いなさい。イエス様はそう言われたのです。
  これが今日の聖書個所ですが、これを読んで私は、結局人間というのは人の評価とか、人に良く思われたいという気持ち、名誉欲と言うのでしょうか、そうしたものからなかなか自由になれないのだなと改めて思わされました。律法学者やファリサイ派の人々も、最初は神様のことを考えて誠実に「施し」や「祈り」、「断食」などの善行に励んでいたのでしょう。けれども、いつの間にか人の評価を得たいという気持ちばかりが勝ってしまって、彼らはそのことばかりを目的にするようになってしまったのです。
  律法学者やファリサイ派の人々のこうしたあり様は、私たちにとって決して他人事ではないと思います。なぜなら、今の私たちもまた、このように人の評価ばかりを気にして肝心のことを見失ってしまうことが良くあるからです。それは、決して名誉欲ばかりに囚われてしまうという問題だけではありません。人の評価ばかりに囚われて、肝心の神様のもとで輝いて生きるということが蔑ろにされてしまっている、そんなことはないでしょうか。
  このことに関連して、最近読んだ渡辺和子さんのご本にこんなことが書かれてありました。「他人にどう見られているか、他人からどう評価されているかは、いつも気になることです。ほめられればうれしいし、けなされれば哀しい。嫌われれば悲観し、好かれていれば心は安らかです。尊敬されれば生きる勇気が与えられ、反対に軽蔑されたり、無視されれば、生きる自信まで失ってしまう。それが人間なのです」。渡辺和子さんのこの言葉を読んで、私は甲東教会時代に出会ったある青年のことを思い出しました。その青年はいつも自分に自信がなく、「自分は価値のない人間だ」、「ダメな人間だ」、「魅力がない」、「器が小さい」、「浅い人間だ」と自分のことを卑下していました。そして、「こんな自分は生きていても仕方がない」と言うのです。
  初めの内はどうしてそんなことを言うのだろうと思っていましたが、彼の生い立ちを聞くにつれ、その根底には周りの大人たちの愛のこもった声掛けが少なかったことがあるのではないかと思わされました。自分がどういう人間であるかということは、幼い時からどういう子どもかと言葉や態度で語りかけた周りの大人からの評価が大きく影響しているものです。「ダメな子」と言われて育った子ども、「何をやらせても兄弟に劣る、姉妹に劣る」と絶えず比較されて大きくなった子どもの自画像から、劣等感を拭い去ることはできません。その子も、親や周りの大人から褒められた経験がほとんどなかったのです。結果、その子は幸せを感じることができずにいました。自分に失望し、自分を受け入れることができず、自分が本来持っているかけがえのない価値にまだ目覚めていなかったからです。
  幼い時から培われてきた「自分には価値がない」というこの思い込みは、成長していく過程の経験によって是正されていかなければなりません。ダメでない自分を発見し、必ずしも他人に劣っていない自分に気づいて、それまで過って描いていた自画像を現実的なものに変えていかなければなりません。先程の渡辺和子さんは、「人間の一生は、自己発見の旅」だと語っています。それは、神様に愛されてある「自分」のかけがえのない価値に目覚めて、輝いて生きていくための旅路に他なりません。そのために、他人の評価とは別に「自分」が存在していることをいつも忘れないようにしたいと思います。たしかに、他人の評価には的確なものもあり、それに謙虚に耳を傾けることが必要な場合もあることでしょう。しかし同時に、他人の評価がすべてではないことも私たちは知らなければなりません。他人も不完全な人間だからです。
  かつて武者小路実篤はこんなことを言いました。「人見るもよし 人見ざるもよし我は咲くなり」と。人が自分のことをどう見ようが、見まいが、私は咲くのだという姿勢が大事です。他人がどう自分を評価しようが、自分には自分にしか咲かせられない花がある。その花を一番美しく咲かせていこうという決意と努力が大事です。神様の無条件の愛は、そのための栄養です。いつも心に、他人の評価に関わりなく存在する「自分」を温かく、冷静に見つめる目を持ちましょう。他人の目や評価に振り回されることなく、神様の愛に養われて、自分だけの花を一生懸命美しく咲かせていきたいと願います。

                  祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
Copyright© 2009 Tokyo Fuchu Christ Church All Rights Reserved.