2021年 3月14日(日) 受難節 第 4主日・合同礼拝
 

「勝利をのぞみ」
 マタイによる福音書 17章1〜13節 
北村 智史

  本来ならば、今日からまた会堂での礼拝が再開する予定でした。しかし、緊急事態宣言が2週間延長され、東京府中教会でも会堂での礼拝をもう2週間休止する決定を致しました。まだしばらく皆さんには、配信される動画を見ながらそれぞれのご家庭で礼拝を守っていただくことをお願いすることになります。隣に愛する信仰の仲間がいないのはさぞかし寂しいことだろうとお察しいたしますが、教会の仲間のことを思い合い、互いに祈り合いながら、それぞれの場で神様に礼拝をお捧げいたしましょう。一日でも早く、また会堂での礼拝が再開できるように神様にお祈りしています。
  さて、受難節も第4主日となりました今朝は、聖書の中からマタイによる福音書17:1〜13を取り上げさせていただきました。ここには、高い山の上でイエス様のそのお姿が変わったことが記されています。ペトロとヤコブとヨハネ、この3人の前でイエス様の姿は変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったのでした。それだけではありません。何とモーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合ったのです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。興奮してこのように話すペトロにさらなる奇跡が起こります。光り輝く雲がペトロたちを覆い、その雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえてきたのです。どれもこれも驚くべき出来事であり、聖なる出来事に他なりません。こうした輝かしい栄光に満ちた出来事を経験したペトロたちの心中はいかばかりのものだったでしょうか。
  神様に対する畏怖の思い。と同時に、イエス様こそメシアであることの確かな証拠を突き付けられて興奮する思いが抑えられなかったことと思います。当然、ペトロたちは他の弟子たちにこのことをすぐにでも話したかったことでしょう。しかし、今日の聖書個所には、一点、不思議なことが記されています。山を下りる時、イエス様は「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちにお命じになったのです。それはなぜでしょうか。
  私はそれは、この出来事がイエス様の生涯の頂点では決してなかったからだと思います。高い山の上で御自身の御栄光を現されたこの出来事が、イエス様の生涯、その働きの結末という訳では決してありませんでした。それは、真の頂点であり、また結末であるイエス様の御受難と復活に向けて、すなわち神様の御心の成就に向けて進み行く旅の途上の出来事であり、通過点におけるエピソードの一つに過ぎなかったのです。確かに自分はこの出来事で自らの栄光を現したが、あなたたちはそれに浮かれている場合ではない。あなたたちにはこれから経験しなければならない大切な出来事が待ち構えているのだ。これが、御自分の復活まで今見たことを誰にも話してはならないと弟子たちにお命じになったイエス様の真意でしょう。
  今日の聖書個所で、イエス様が登った「高い山」の上から果たしてエルサレムの町が見渡せたのかどうか、私たちには分かりません。しかしこの日、イエス様の瞳の奥には、エルサレムの城門、神殿、ゲッセマネの園、そしてゴルゴタの丘が確かに映し出されていたのだと私は思います。
  歴史の中で、時として誰かが「高い山」に登る使命を負わされることがあります。その人は山に登り、その上から「約束の地」を眺め、皆にそれを告げ、進むべき方向を指し示し、人々を励ます役割を担うのです。聖書の中ではモーセやイエス様がそうでしたし、現代ではキング牧師や中村哲さん等がそうした人々だったと言えるでしょう。
  奇しくも先月、2019年12月にアフガニスタンで銃撃され、亡くなった中村哲さんの特集がテレビで放映されていました。中村さんの死から一年ということで、昨年の12月に放映されたものの再放送だったみたいですが、これを見まして、私は改めて中村さんの志を私たちが受け継いでいかなければならないのだという思いを新たにさせられました。
  クリスチャン医師として、パキスタンやアフガニスタンで何人もの人々を救って来られた中村さん。しかし、飢えや渇きは薬では治せない。そうした思いから、中村さんは人々の命を守るため、医師の働きも越えて、自ら重機も運転し、農業用の用水路をひいて、砂漠化した東京ドーム3500個分の土地の緑化に成功したのでした。
  その中村さんは言います。「武力では平和は成し遂げられない」と。9・11テロからブッシュ大統領が「強いアメリカ」を叫んで報復の雄叫びを上げ、アフガニスタンに攻撃を仕掛けた時も、中村さんは「瀕死の小国に、世界中の超大国が束になり、果たして何を守ろうとするのか、素朴な疑問である」と、武力によって相手をやっつけることが自らの平和を生み出すのだという考えを否定しました。武力ではテロは断ち切れない、その背景にある貧困の問題を解決しなければならないと訴えたのです。
  「家族を食わせるために米軍のよう兵になったり、タリバン派、反タリバン派の軍閥のよう兵になったりして食わざるを得ない。家族がみんな一緒にいて、飢きんに出会わずに安心して食べていけることが、何よりも大きな願い、望み」。用水路建設はそのための事業に他なりません。「アフガン問題とは、政治や軍事問題ではなく、パンと水の問題である。『人々の人権を守るために』と空爆で人々を殺す。果ては『世界平和』のために戦争をするという。いったい何を何から守るのか。こんな偽善と茶番が長続きするはずはない。」「作業地の上空を、盛んに米軍のヘリコプターが過ぎてゆく。彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。彼らはいかめしい重装備。我々は埃だらけのシャツ一枚だ。彼らに分からぬ幸せと喜びが、地上にはある。」中村さんの言葉には、非常に重いものがあります。
  「人は忙しく仕事をしていれば、戦争のことなど考えません。仕事がないから、お金のために戦争に行くんです。おなかいっぱいになれば、誰も戦争など行きません。」このアフガニスタン現地の人の言葉にも、私たちは真摯に耳を傾けなければならないでしょう。
  その後、2011年5月に、アメリカは同時多発テロ事件の首謀者、オサマ・ビンラディン容疑者の潜伏先を襲撃し、殺害。3年後の2014年には、アフガニスタンの治安維持などにあたってきた、アメリカ軍を中心とする国際部隊の大部分が撤退します。その後、力の空白が生じたアフガニスタンでは、タリバンが勢力を盛り返し、過激派組織ISの地域組織も台頭。軍の施設や政府機関を狙ったテロなどが繰り返し発生し、民間人の死傷者は、年間1万人を超えるようになりました。そんな中でも中村さんは、「アフガニスタンは40年間戦争が続いていますが、いまは戦争をしている暇はない。敵も味方も一緒になって、アフガニスタンの国土を回復する時期だ。できるだけ多く緑を増やし、砂漠を克服して人々が暮らせる空間を広げること。これはやって、絶対できない課題ではない」と平和を訴え、自らの活動を進めていました。
  平和は戦争に勝る力があるという言葉を実証したい。このように訴えていた中村さん。彼は自分たちの群れが目的地からまだはるかに遠くあることを十分に知っていました。しかしまた同時に、自分たちがそこに近づきつつあることも十分に知っていたのです。その意味で、中村さんは自分たちが「旅する神の民」であることをよく知っていました。それは、モーセもイエス様も、キング牧師も同じだったことでしょう。彼らのその長い旅の途上で、神様は一時、やがて到達するであろう「約束の地」、神の国のしるしを垣間見せてくださったのです。
  1968年4月3日、凶弾に倒れる前夜、最後の説教の中でマルティン・ルーサー・キング牧師は次のように語っています。「神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地も見た。私は、みなさんと一緒にその地に達することができないかもしれない。しかし今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちはひとつの民として、その約束の地に至ることができるということである」。
  イエス様もキング牧師も、中村哲さんも殺されました。しかし、そのような出来事を味わいながら、なおも私たち神の民は歩み続けていかなければなりません。彼らが垣間見せてくれた神の国、約束の地に私たちは必ずや至ることができるという信念を持って。十字架の主、復活の主は今もこの歩みの先頭に立って、真の自由と愛に満ちた地へと歩み続けておられることでしょう。私たちは皆、主と共にやがていつかその地に達します。この確信こそ、私たちの夢であり希望に他なりません。未だにたくさんの罪が溢れるこの世界の中を私たちは生きていますけれども、この夢、希望を抱えて、この世界を変えていく神の民の行進に自らも連なっていきたいと願います。
              祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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