2021年 3月28日(日) 受難節 第 6主日・棕梠の日/合同礼拝
 

「群衆の手の平返し」
 マタイによる福音書 21章1〜11節 
北村 智史

  今日は、棕櫚の主日の礼拝を神様にお捧げしています。今からおよそ2000年前の今日、イエス様はエルサレムに入られました。十字架の御業を成し遂げるためです。教会の暦では、このことを記念する今日の棕櫚の主日から受難週が始まっていきます。イースターまでの一週間、イエス様がエルサレムで受けられた御受難を一つひとつ思い起こしながら日々の生活を過ごして参りましょう。今週の金曜日の夕方には、受難日の夕礼拝が執り行われます。この礼拝の動画は翌日HPから見られるようにする予定ですので、新型コロナを避けてご家庭で礼拝に与られる方はそちらをご覧ください。この一週間、しっかりと悔い改めの内に過ごしていきたい、そして、来るイースターの日には皆で心を合わせてイエス様の御復活をお祝いしたいと存じます。
  さて、そんな今日は聖書の中からマタイによる福音書21:1〜11を取り上げさせていただきました。イエス様のエルサレム入城の場面です。ここに記されているように、イエス様はろばに乗ってエルサレムへと入られました。この時、大勢の群衆が自分の服を道に敷き、他の人々は木の枝を道に敷いてイエス様を大歓迎したと言います。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。人々はそう叫んでイエス様を褒め称えました。
  では、なぜ人々はこんな風にイエス様を褒め称えて大歓迎したのでしょうか。実は、人々はイエス様のことを、「これからこの人は王様になる。そして、外国の支配を打ち払って皆に良い思いをさせてくださる」と信じていたんですね。でも、イエス様はそんなメシア(救世主)では決してなかったんです。実は、イエス様は偉い王様になるどころか、むしろその逆、犯罪者として十字架につけられてしまう、そうして殺されてしまうことを通して、ユダヤ人だけでなく異邦人も含めた皆の罪の贖いを成し遂げる、そうして皆に永遠の命を与える、そんなメシアだったんです。ですから、だんだんと皆の期待と実際のイエス様の姿がかけ離れていくんですね。イエス様はエルサレムに入られてから、御受難を受けていかれるんですが、その姿は皆が期待していたメシアの姿とは程遠いものでした。ですから、イエス様が十字架につけられた時、人々は「よくも私たちを騙したな。お前は私たちが期待するようなメシアではなかったではないか」と、激しく罵声を浴びせてイエス様を罵りました。それは、今日の聖書箇所での大歓迎が信じられないくらいの手の平返しでした。人々は1週間も経たない、わずか5日程で、イエス様に対する態度を翻したのです。イエス様が自分たちに都合の良い利益をもたらしてくれる存在ではないと分かったからです。
  人々の罪の深さを思わされます。しかし、こうした群衆のすぐに手の平を返す態度は、決して今の私たちと無関係ではありません。今の私たちもまた、イエス様が自分に都合の良い利益をもたらしてくれないと分かると、すぐにイエス様に対する態度を翻してしまうというところがあるのではないでしょうか。
  このことに関連することですが、これまで、私は説教の中で何度か、私たちの信仰には消費者根性のようなものが混じって来ることがあるということを申し上げたことがあります。つまり、自分はお客さんとして、神様から、教会から、あるいはキリスト教という宗教からどれだけ都合の良い御利益をいただけるか、そのことばかりを考える、そしてそうした御利益をいただけるうちは神様を信じ、教会に関わるけれども、そうした御利益がいただけなくなったり、不都合なことが生じたりした時には神様を信じることも教会に関わることも止めてしまうといった態度です。そうした消費者根性が私たちの間に見られることは決して少なくありません。礼拝学者のジョン・バークハートという人は、こうした消費者根性について、「神をまるで私たちの目的を達成するための手段であるかのように取り扱うことは、私たち自身が『神』であると思い込むことにほかならない」と警鐘を鳴らしておられます。
  もちろん、私は神様に何か願い事をすること自体を否定しているわけではありません。実は今月の初めに父が大きな手術をいたしまして、その時も私は妻と共に神様に「父の体が守られますように」とお祈りをいたしました。結果、父の手術は無事成功し、私は神様が与えてくださった大きな恵みに信仰をさらに強められたわけですが、しかし私が言いたいのは、たとえ願いどおりの結果にならなかったとしてもということなのです。もし仮に父の手術が上手くいかなかったなら、私は神様に対する信仰を捨てていたかというと、決してそうではなかったと思うのです。「神様、何でですか」と問うことはするでしょう。何度も何度も神様に問うて、しかし最後にはイエス様がゲッセマネで祈られたように、「御心のままに」と、その苦難の中にもイエス様が隣りにいてくださることを信じてお祈りしたと思うのです。自分の願望どおりにならなかった、あるいは自分に不都合なことがあったからといって、すぐに神様に対する態度を180度翻してしまうというのは信仰深い態度とは言えないでしょう。
  先程は信仰における消費者根性を批判しましたけれども、しかし現実として、確かに人間というものは宗教に御利益を求める気持ちからは自由になれないのかもしれません。キリスト教の場合でも、永遠の命が与えられるとか、神様のもとで生き生きとした生活を営んでいくことができるとか、「人間とは何か」、「人間はいかに生きるべきか」といった問題に答えてくれるとか、そうした恵みが入口と言いますか、そうした恵みがあるからこそ私たちはこの宗教を信じるようになったのでしょうし、今も教会に連なっているのでしょう。それは否定できません。いくら口で「キリスト教は御利益宗教ではない」と言ったところで、御利益のない宗教などあり得ないし、そんな宗教があったとしても誰も相手にしないだろう。その意味で、人は宗教に御利益を求める気持ちからは決して自由になれない、それはその通りだと思います。
  しかし、キリスト教が一般の御利益宗教と違うのは、神様が私たち人間の願望を何でもかんでも実現してくださるとは限らないということを知っているということです。神様は時として、私たちが期待するのとは全く異なる形でそうした願望に応えてくださることもあるということを、私たちはよく弁えています。そして、その時も神様が共にいてくださることを信じて、神様と共にその苦難を乗り越えていくのです。どんな時にも、イエス・キリストを絆として、神様と共に、また隣人と共に生かされて生きていくのがキリスト者。私は今日このことを改めて強調しておきたいと願います。
  かつて大きな苦難の中で、妻に「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言われた時、ヨブは言いました。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と。このヨブの如く、不幸があっても神様を恨まないで生きていきたい、私たちの弱さと痛みをよくご存じのイエス・キリストを信じ、彼が底支えしてくださることを信じて、主にある希望に生かされていきたいと願います。どんな時にも神様から離れることなく、最後まで神様に付き従っていく、そんな生涯を、ここにいる皆さんと共に過ごしていきたいと存じます。
               祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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