2021年 4月 4日(日) 復活節第 1主日・復活日(イースター)合同礼拝
 

「あなたのガリラヤ、カルカッタはどこに?」
 マタイによる福音書 28章1〜10節 
北村 智史

  今日は待ちに待ったイースターです。振り返ってみれば、昨年のイースターは新型コロナのために会堂で集まって礼拝することができず、それぞれのご家庭で、教会のホームページに掲載された説教原稿をお読みいただきながら礼拝をお守りいただきました。それからおよそ一年、まだまだ新型コロナの混乱は続いており、先月の21日まで東京府中教会では会堂での礼拝を休止していました。何とか28日から会堂での礼拝を再開することができ、受難日夕礼拝、そして本日の礼拝を執り行うことができたのは大きな恵みです。誰しもが絶望するしかなかった十字架の出来事の先にイエス様の御復活という大きな喜びと希望の出来事が備えられていた。今日はそのことをお祝いし、この新型コロナという苦難の先にも必ず神様が希望を備えてくださっている、そのことを改めて確認したいと存じます。この苦難の社会に、主にある希望を広く訴えていきましょう。
  さて、イースターの今日は聖書の中からマタイによる福音書28:1〜10を取り上げさせていただきました。イエス様が復活された場面です。先週の金曜日に東京府中教会では受難日の夕礼拝を執り行いましたけれども、イエス様は金曜日に十字架につけられ、それから金曜日も含めて三日後、日曜日の明け方に復活されたんですね。今日の聖書個所には、その時の様子が詳しく報告されています。
  マグダラのマリアともう一人のマリアがイエス様のお墓を見に行きました。すると大きな地震が起こり、天使が現れてイエス様のお墓の蓋をしていた石をわきへ転がしたんですね。天使は言います。「恐れることはありません。十字架につけられたイエス様を捜しているのでしょうが、イエス様はここにはおられません。復活されたんです。さあ、遺体の置いてあった場所を見て、お墓が空になっていることを確認しなさい。そして、急いで弟子たちのところに行ってこう言いなさい。『イエス様は死者の中から復活されました。そして、ガリラヤに行かれます。そこでイエス様に会うことができますよ』と。確かに、あなたがたに伝えましたからね。」
  婦人たちはびっくりです。けれども大喜びで墓を立ち去り、天使が言われたように弟子たちに知らせるために走って行きました。すると、イエス様が行く手に立っていて、「おはよう」と言われたんですね。婦人たちは喜び、近寄ってイエス様の足を抱き、その前にひれ伏しました。イエス様は言われます。「恐れることはありませんよ。行って私の弟子たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会うことになります。」
  これが、今日の聖書個所です。今日はこの中で、天使もイエス様も「弟子たちはガリラヤでイエス様に会うことになる」と仰られた、その意味を深く考えたいと思います。弟子たちにとってガリラヤとは、イエス様と過ごした日常生活の場に他なりません。天使もイエス様も、特別な場所ではなく、日常生活の場で復活のイエス様に会いましょうと仰られたんですね。それは、現代のイエス様の弟子である私たちにも言われていることだと私は思います。
  このことに関連して、今は亡くなられたノートルダム清心学園元理事長の渡辺和子さんが、ある御本の中でマザー・テレサにまつわるエピソードとしてこんな話を紹介しておられました。
  「マザー・テレサが日本にいらした時のことです。私たちの大学にもいらして、待ち構えていた学生たちにお話をしてくださいました。お話に感動した学生たちの中から、奉仕団を結成したいという声があがり、受け入れについての質問が出ました。マザーはとてもうれし気に、感謝しながら、こう言われたのです。『その気持ちはうれしいが、わざわざカルカッタまで来なくてもいい。まず、あなたたちの周辺の「カルカッタ」で喜んで働く人になってください』それから二年半経った三月中旬、私は広瀬さんという卒業生から手紙を受け取りました。その人は、前年の三月に大学を卒業して、県内のある高校で国語の教師をしていました。自分が教師になって初めて送り出した女子生徒の一人が、卒業式後にこう言ったそうです。『広瀬先生だけは、私を見捨てないでくれた。ありがとうございました』そう言い置いて校門を出ていった生徒の後ろ姿を見ながら、広瀬さんは思いました。『私がしたことといえば、授業中に目が合った時、あの子に努めてほほえんだことだけだったかも知れない』と。その女子生徒は、学業にも家庭にも問題を抱えていて、他の教師たちには『お荷物』と考えられていたそうです。他の教師たちから無視されていた生徒に、広瀬という新卒の国語教師は、目を合わせることを恐れず、しかもほほえみかけることによって、その生徒の存在を認め、見捨てなかったのでした。私が特にうれしかったのは、広瀬さんは、かつてカルカッタへ奉仕に行きたいと申し出たひとりだったということでした。彼女は、マザー・テレサとの約束を守って、自分が教えるクラスの中の『カルカッタ』で立派に働いてくれたのです。私たちの周辺にも『カルカッタ』があります。」
  渡辺和子さんのこの話を読んで、私は今日の聖書個所に出てくる天使とイエス様の言葉、すなわち、ガリラヤで、日常生活の場で復活のイエス様に会いましょうと仰られたその言葉に通じるものがあるなと思わされました。
  たしかに、遠い所で起きているこの世界の悲惨な現実に心を留めることも必要なことではあります。しかし、それだけで終わってしまうなら、私たちは主の御委託に豊かに応えたことにはならないでしょう。遠くの悲惨な現実の場にももちろんイエス様は働いておられますが、マザー・テレサや渡辺和子さんが言われるように、私たちのごく身近にも愛を必要とする人々はいるのです。そして、イエス様はそこでも懸命に働いておられます。それを無視してしまってはいけません。私たちの愛が必要な人々は何よりもまず日常生活の中にいるのだということ、日常生活の場こそ、私たちのカルカッタであり、ガリラヤであるのだということを忘れないようにしたいと思います。
  愛は身近な所から。私たちの身近な所に、私たちの愛や奉仕を必要としている人々がいる。今日はこのことを改めてしっかりと心に留めておきましょう。そして、そういう人々のもとへ行き、最も求められているところで愛と思いやりの心を与えていくことを今年度の目標として参りましょう。日常生活の場で、皆と愛することの喜びを分かち合い、復活の主に豊かに出会っていきたいと願います。
             祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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