2021年 4月18日(日) 復活節 第3主日・合同礼拝
 

「復活―キリスト教の死生観―」
 マタイによる福音書 12章38〜42節 
北村 智史

  4月も第3主日を迎えました。新年度が始まって2週間と少しが経過したわけですけれども、皆さんいかがお過ごしでしょうか。新年度に入っても依然として新型コロナが猛威を奮っていますので、昨年度からあまり変わり映えしない忍耐の日々を過ごしていると仰る方もおられるかもしれません。東京府中教会でも昨年度に引き続いて新型コロナの対策を強いられる、そんな毎日です。毎年4月と言えば定期教会総会の時期なのですが、今年も昨年同様皆で集まって開催するのは難しく、書面での開催となりました。議案、議決権行使書と役員選挙の投票用紙が皆さんのところに送られていると思いますので、返信をよろしくお願いいたします。まだまだ新型コロナの苦難は続いて参りますが、今年度も神様に導かれて豊かにその御用を為していきましょう。
  さて、先程お読みいただきました聖書個所はマタイによる福音書12:38〜42です。新共同訳聖書ではこのお話に、「人々はしるしを欲しがる」と小見出しが打たれています。では、聖書はこのお話を通して私たちに何を教えているのでしょうか。詳しく見ていきましょう。
  ある時の話です。何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に、メシアと信じるに足るしるしを見せてくれるよう求めました。そんな彼らに対して、イエス様は言われます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と。しるしを求める人々を批判し、彼らの期待を打ち砕くようなはっきりとしたイエス様の言葉です。
  しかし、この言葉は今の私たちに対して言われている言葉でもあるのではないでしょうか。今の私たちもまた、しばしばイエス様に対してしるしを求めます。これだったら、イエス様を信じることができる。そんな都合の良いしるしを求めて、「それが与えられない、見当たらない」と言ってイエス様のことを疑います。そして、信仰に挫けそうになるのです。
  そんな私たちに、イエス様は今日の聖書個所を通して言われます。「自分自身を賭すことなしに保証される信仰などどこにもない。『信じる』ということはしるしによらずに、自分に従うことを決断することなのだ」と。イエス様に対して何か目に見える形で見返りを求めることは、私たちの信仰ではないのです。神様に背を向けていたニネベの人々がヨナの語る神様の言葉によって生き方を変えたように、またシェバの女王が自らソロモンのもとへ遥かな旅に出かけたように、しるしなしに信じ、従うことが私たちに求められています。
  しかし、そんな私たちにも唯一与えられるしるしがあると、イエス様は今日の聖書個所の中で仰っておられます。それは、「預言者ヨナのしるし」です。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」。すなわち、イエス様が死に、三日目に復活すること、そのことが唯一のしるしとなって私たちの信仰の生涯の保証となるのだとイエス様は言われるのです。イエス様の復活、実にこれこそが私たちの信仰の、また救い、永遠の命の確かな根拠に他なりません。私たちはイエス様の復活を根拠に、自分の復活を信じるのです。そして、キリスト教ではこの観点から自分の命、生と死というものが捉えられていきます。
  省みて、普段私たちはどれほど自らの生と死について思いを馳せているでしょうか。日本の社会では長い間、「死」について語ることはタブーとされてきました。しかし、最近ではこうした風潮は変わりつつあるように感じられます。「ホスピス」を中心とした終末期医療や医療技術の発展と共に、死の問題はにわかに様々なメディアで論じられるようになってきました。「終活」という言葉が話題になり、死について考えることは今を生きることに繋がるものとして、以前よりも積極的に捉えられるようになってきたように思われます。
  しかし、その一方で私たちが死を受け入れて来た伝統的なシステムは崩壊しつつあるのではないでしょうか。このシステムについて、日本ルーテル神学校校長の石居基夫先生はこのように語っています。
  「私は、日本人らしい伝統的な宗教性には二つのものがあると思う。一つは『自然志向型の宗教性』である。自然の大きないのちの循環の中に自分を預けていくような宗教性といったらいいだろう。死んだら自然の中に還っていくという感じ方を持っている。春が来ていのちが芽生え、夏に成長し、秋にだんだん衰えて、やがて冬を迎えていのちを閉じる。しかし、それで終わりなのではなく、次の春にはまた新しいいのちが芽生えてくる。そのようないのちの大きな循環の中に私たちのいのちもあると感じているのだ。
  山と海が身近で、水が豊かに流れている。その水の流れとともに、いのちが巡っている。精霊流しのような行事は、死者の霊もその流れの中に預けることをよく表しているだろう。緑豊かな山は、死者の霊が還っていく場所だ。山の斜面に墓のある風景をよく見るが、それは死んだ人の霊が山に休むと考えられているからだ。そして、ある一定の期間を経て、死者の霊は祖先の霊と一つになっていく。やがて生まれ変わり、新しいいのちとなる。そうした自然と一つであるという宗教性、霊性というものがある。
  もう一つの特徴は『共同体志向型の宗教性』だ。私たちは死んだらこの世界からいなくなってしまうのではなく、共同体の中に生き続けるという考え方である。たとえば、家の中に仏壇や神棚を置くが、死んだ人はそこにいると考えられているのだ。家族はそこにお供えをし、ご飯を持ってきて一緒に食事をする。そして、何か大事なことがあれば報告もする。『おばあちゃん、今度、結婚することになりました』と話しかけるのだ。
  つまり、死んだ人はいなくなるのではなくて、共同体の中に生き続けている。共同体の中で私たちのいのちは保たれるのだ。仏教的なやり方だと、三三年とか五〇年をかけて弔いあげをして祖先の霊と一つになるまで、共同体の中にその人として憶えられ、いのちが保たれるという感覚を持っている。……(中略)……こうした自然志向型、共同体志向型の宗教性によって、私たちのいのちの始まりも終わりも守られてきた。葬儀では、家を中心としたその共同体全体の中でその死を受け止め、互いに助け合う。葬儀の時ばかりでなく、お彼岸やお盆を迎える時には、共同体全体で死んだ人の霊を山から迎え、お盆が終わったら送り火を焚いてまた送り出す。そういうやり方で私たちは、『死』の大きな喪失の体験、深い悲しみと痛みを和らげ、受け止めていくシステムとしてきたのである。おそらく、私たちのいのちの始まりと終わりを豊かに守るものは、『ふるさと』という原風景だったのではあるまいか。これが日本人の伝統的な死の受容システムだったのである。」
  しかし、この伝統的な死の受容システムが、今日根こそぎ壊れてきたと石居先生は仰います。以下、石居先生の言葉です。
  「自然のいのちの流れに委ねたいと思っても、私たちは自然を作り変え、そこからいろいろな資源を取り尽くし、そしてずいぶん乱暴をしてきた。東日本大震災での原発事故は象徴的で、しかも決定的に現代の問題を明らかにしている。私たちの文化は自然をどんどん壊してきたのである。
  また、都市化された社会では、隣に住んでいるのが誰かさえ分からないし、核家族化し、さらに個人化した社会では、『村』はおろか『家』という基本的な共同体そのものが崩壊してしまっている。人間関係の希薄さの中で、『いのち』の誕生から終わりの時までを支え合い、さらに『死』を超えてその存在のよりどころとなってきた共同性が失われてしまったのである。
  自然も共同体も失われ、伝統的な宗教性、死の受容システムは機能しなくなっている。私たちは帰るべき『ふるさと』を失いつつあるのだ。」
  石居先生のこうした指摘からは、片方で死について公に考えることが求められるようになり、その片方で死の受容システムが失われて戸惑う現代人の姿が浮かび上がって来るような思いがいたします。死について積極的に考えたいのだけれども、またそれが求められているのだけれども、死をどう受け止めていったらよいのか、何をよすがにそうした問題を考えていけばよいのか、分からずに右往左往しているというのが今の私たちではないでしょうか。
  そのような中にあって、復活、永遠の命という観点から私たちの生と死を捉えるキリスト教の死生観は大きな意義を持っているように私には感じられます。死というものについて考えた時、最も恐ろしいのは孤独でしょう。「自分は死んだらどうなるのか」、そういう存在論的な問いが絶えず心の中に湧き起こってきます。そして、「自分は死ぬことによってすべての人々から断ち切られ、忘れられて一人になってしまうのではないか、あるいは死んだら消えてなくなってしまうのではないか」という恐怖にさらされます。
  しかしその時に、私たちの宗教ではこう考えるのです。「私は死ぬことによって、消えてなくなってしまうのではない。すべての人々から断ち切られ、忘れられて一人になってしまうのでもない。私は復活する。そして、永遠の命をいただいて、既に召された人々と共に安らかに神様を礼拝する。やがてそこに、私たちの愛する人々もやって来るだろう」と。「なぜそのように言えるか」と問われれば、私はイエス様の御復活を確かなしるしとして挙げます。「私たちの初穂としてイエス様が復活された。私たちもまたイエス様のように、神様の御前に確かに蘇るのだ」と答えます。
  かつてルターは、死の床でその恐ろしさを感じたなら、教会の交わりを思い起こすようにと言いました。「私が死ぬことになっても、一人で死ぬのではない。キリストが共にいてくださり、また、天上の聖なる御使いや聖徒たちや地上の信仰篤き人々がみな味方になって、共にいてくださる」と言いました。この宗教性、この交わりこそ、今は根こそぎ失われつつある日本の伝統的な死の受容システムに取って代わりうるものではないでしょうか。
  死の問題を前に右往左往する私たちを前に、聖書はこう証しします。「イエス・キリストのゆえに、死はもはや私たちをすべてのものから切り離す力ではない」と。「私たちの人生の最期の時まで、イエス・キリストが必ずあなたと共にいてくださる。あなたと共に死んで、共に葬られ、そしてあなたを共に復活の命に与らせてくださる。イエス・キリストは決してあなたを見捨てない」。聖書は、このことをはっきりと私たちに約束してくれています。そしてその約束の光で、今を精一杯有意義に生きる者としてくださるのです。
  いずれにせよ、日本人的な死の受容システムが崩壊している今だからこそ、私たちは確かないのちの恵みで答えることのできるキリスト信仰の深みを分かち合っていきたいと願います。願わくはこの復活節のシーズン、神様が私たちの宣教の業を力強く導いて下さいますように。一人でも多くの人々と共に永遠の命の交わりに生かされていく豊かさを共有し合い、巷に溢れるいのちの議論、生と死の議論に貢献していきたいと願います。
               祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
Copyright© 2009 Tokyo Fuchu Christ Church All Rights Reserved.