2021年 4月25日(日) 復活節 第4主日・合同礼拝
 

「神様からの宿題」
 マタイによる福音書 28章16〜20節 
北村 智史

  4月も最後の主日となりました。新年度の歩みが始まって、およそ一月が経とうとしています。皆さんはこの一月、どのように過ごされたでしょうか。子どもたちは新しい学年に馴染めるか、不安もあったことと思います。毎年、新しい年度が始まるだけでも大変なのに、今年はまだ新型コロナが猛威を奮っているから、子どもたちは不安もひとしおだったことでしょう。振り返ってみれば、昨年は学校が休校になったりと、子どもたちも生活に大きな影響を受けました。今年はなるべくそうした影響がないようにと神様にお祈りしていたのですが、今日から3回目となる緊急事態宣言が出されてしまいました。私たちの生活にも大きな影響が出ていますが、学校生活を初め、子どもたちの生活になるべく影響が出ないように、また子どもたちの健康が守られますように神様にお祈りしている次第です。一日でも早く新型コロナの混乱が落ち着きますように祈りつつ、教会全体で子どもたちのことを気にかけながら歩んで行けたらと願っています。
  さて、復活節第4主日の今朝は、聖書の中からマタイによる福音書28:16〜20をお読みいただきました。イエス様の大宣教命令と呼ばれている箇所です。復活したイエス様はまず婦人たちにそのお姿を現されて、こう言いました。「わたしの弟子たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。この言葉を聞いた11人の弟子たちは早速ガリラヤへ行き、イエス様が指示しておかれた山に登りました。そして、そこでイエス様に出会ったのです。イエス様は言いました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。
  要するに、イエス様は天に昇って行かれる前に、弟子たちに宿題をお与えになったんですね。御自分が終わりの日に再びこの世へと戻って来られるまでの間、教会を建ててダイナミックに宣教に励むよう、イエス様は私たちに課題をお与えになりました。このイエス様の課題が、単なる「伝道命令」ではなく、「大宣教命令」と呼ばれていることには大きな意味があると私は思います。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」、「洗礼を授けなさい」と言われているからと言って、狭い意味で信徒獲得に走ることだけをイエス様はお命じになったのではない、もっと広くダイナミックにイエス・キリストの福音を光り輝かせて人々が神様を仰ぎ見る者となるよう、そうして神様の御旨がこの地に成るようにするよう、イエス様はここでお命じになっているのだと私は思います。
  このことに関連することですが、かつて日本基督教団では礼拝をとても大切にする人々と、この世の人々に奉仕することをとても大切にする人々とが、互いに教会派、社会派、あるいは礼拝派、宣教派などと言い合って対立していました。この対立は今でも根強く残っているように私には感じられます。
  しかし、これはとても愚かなことだと私は思います。礼拝と宣教は別々に存在しているものでは決してないからです。礼拝や伝道集会は重んじるけれども、この世の人々に仕える業を軽んじるのであれば、教会は内向きになり、自分のことのみに関心を注ぐことになるでしょう。逆にこの世の人々に仕える業を重んじるけれども、礼拝を軽んじるのであれば、教会はこの世の人に仕えるための豊かなリソースや熱情、粘り強さを失っていくことと思います。
十字架が縦木と横木から成っているように、私たちの信仰も礼拝という神様への奉仕、縦軸があり、この世の人々への奉仕、横軸、水平軸があって初めて成り立つものなのです。縦軸だけ、横軸だけというのは、バランスの取れた信仰ではありません。真剣に礼拝を守り、信徒獲得のための伝道を行うことはもちろん、それにとどまらずにダイナミックにこの世の人々に仕えていくことが私たちに求められています。
  では、省みて、私たちは豊かにこの求めに応じることができているでしょうか。今日の聖書個所でイエス様から与えられた宿題を、私たちはきちんと果たすことができているでしょうか。
  今の社会を見渡せば、この新型コロナによって至るところで差別やヘイトクライムが起き、分断が生じました。けれども、それらは新型コロナによって急に、また初めて起きてきたものでは決してなかったと思うのです。この日本でも横浜中華街の外国人を誹謗中傷するビラがまかれたりする事件があり、アメリカでもアジア人が突然殴られたりする事件がありましたが、こうしたヘイトクライムなどは、もともと私たちの間にあったものと言いますか、私たちの間にあった差別意識、罪がこの新型コロナによってさらに浮き彫りになって来た事例ではなかったでしょうか。つまり、元々私たちが対処しなければならなかった、しかしそれを怠り続けてきた社会の課題が、この新型コロナによってより大きな課題となって私たちの前に突き付けられたのです。
  新型コロナ自体はワクチンなどによって、やがていつかは収束するでしょう。しかし、今回のコロナによって浮き彫りとなった私たちの社会の課題は、私たちが真剣に向き合っていかない限り乗り越えられません。こうした課題をこれ以上先延ばしにすることなく、イエス様から与えられた宿題として皆で一緒に取り組んでいきたいと願います。願わくは、神様が私たちの宣教の業を祝福してくださいますように。イエス様と共に、また皆で一緒に神の国にふさわしい社会を打ち建てていきましょう。
             お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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