2021年 5月 2日(日) 復活節 第 5主日・合同礼拝
 

「目的と手段」
 ヨハネによる福音書 20章19〜23節 
北村 智史

  先月は教会総会を書面で行い、25日には新たな役員で臨時の役員会が開かれました。今は新型コロナの影響で会堂での礼拝を休止していますが、それでも新しい年度を歩んで行く体制が着々と整えられて、身が引き締まるような思いを感じています。振り返ってみれば、昨年度は新型コロナという未曽有の事態を経験し、その対応に追われた一年間でした。今も私たちの社会では新型コロナの混乱が続いています。そのような中にあって、今年度も教会員皆で力を合わせて苦難を乗り越えていきたいと考えています。2021年度も東京府中教会の歩みが神様に守られますように、この府中の地でイエス様の福音を光り輝かせていくことができますように、神様にお祈りすると共に、皆さんのお祈り、ご奉仕をよろしくお願い申し上げる次第です。
  さて、そんな今日は聖書の中からヨハネによる福音書20:19〜23を取り上げさせていただきました。復活したイエス様が弟子たちにその姿を現された場面です。イエス様を逮捕し、十字架へと追いやったユダヤ人たちが今度は自分たちも逮捕しにやって来るのではないかと恐れていた弟子たちは、家の戸に鍵をかけて息を潜めていました。すると、そこへイエス様が来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。「鍵をかけていたのに、いつの間に?」驚く弟子たちに、イエス様は手とわき腹をお見せになりました。すると、そこには十字架でできた傷がありました。「間違いない。イエス様だ。」弟子たちは大喜びです。そんな弟子たちにイエス様は言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました。
  これが、今日の聖書個所です。ここに見られるように、イエス様は弟子たちを宣教に派遣することをはっきりと宣言されたのでした。その際に、「あなたがたに平和があるように」と言われているのは、とても重要な意味を持っていると私は思います。
  イエス様が復活したそのお姿を現された時、弟子たちはユダヤ人たちを恐れていただけではなくて、自分たちがイエス様を裏切り、見捨てて見殺しにしたという事実にも脅えていました。マグダラのマリアから復活の主に出会ったという話を聞いたが、もしイエス様が自分たちにもそのお姿を現されたとしたら何と言われるか、「よくも私を裏切り、見捨て、見殺しにしたな。あなたがたを一生呪ってやる」、そのように言われても仕方がない、そういう状況に弟子たちはいたのです。
  しかし、実際にそのお姿を現されたイエス様の口から出た言葉は、「あなたがたに平和があるように」という言葉でした。「私はあなたがたを赦しますよ。わたしがあなたがたと共にいる、その平安に満たされなさい。シャローム」。イエス様はそう言われたのでした。この「シャローム」という言葉は、「スーパームーン」と呼ばれる大きな満月のような、そんなイメージの言葉だそうです。神様の御臨在にいつも触れている、そしてその御配慮の中で満ち満ちて、一つも欠けた所がない、そんな平和を表す言葉だそうです。この言葉が、弟子たちを宣教に遣わすことを宣言される場面でも言われていることを考えれば、弟子たちはこの平和に満たされるだけでなく、この平和をどこまでも広く宣べ伝えていく者となるよう、イエス様から求められたのでしょう。そして、それは現代の弟子である今の私たちにも求められていることだと私は思います。
  私たちはイエス・キリストの福音を携えて、平和のためにこの世へと遣わされていかなければならない。私たちキリスト者は神の平和のために貢献していく使命を背負わされている。そういうわけで、今日も私はキリスト者として平和について語ろうと思うのですが、このことに関連して、最近、興味深い説教を読みました。1967年に語られたキング牧師の”A Christmas Sermon on Peace”(平和についてのクリスマス説教)というタイトルの説教です。1968年の4月にキング牧師は暗殺されてしまいますから、これは彼の人生最後のクリスマス説教ということになるでしょう。
  この中で彼は、「地に平和を求めるとすれば、人間や国家は目的と手段を一貫したものにする非暴力主義を確信もって受け入れ」なければならないと主張しています。以下、彼の説教の要約です。
  「ある人は、目的は手段を正当化すると言って、手段は大して問題ではないと言う。目的を達成する限り、どのような手段でも構わないと考える。しかし、どこであれ、目的を手段から切り離してはならない。最も不思議なことの一つは、世界の偉大な軍事的天才たちが、平和について語ったことである。平和を追求する中で、殺戮を行った征服者が多くいる。『我が闘争』を読めば、ヒトラーがドイツ国内で行ったすべてのことは平和のためであったと主張していることを知るであろう。それでは、問題は何であろうか。彼らが、平和を遠い所の目標としていることである。しかし、平和は、遠くの目標ではなく、その目標に到達するための手段であることを知らなければならない。我々は、平和の目的を平和的手段を通して追求しなければならない。究極的には、手段と目的は一貫していなければならない。破壊的な手段によって建設的な目的を達成することはできない。」
  こうしたキング牧師の説教を読んで、真っ先に私の頭の中に思い浮かんだのが原爆のことでした。ある人は言います。「広島、長崎に原爆を投下していなければ、戦争が長引いてもっとたくさんの人が亡くなっていた。原爆はより多くの命を救い、平和を成し遂げるための手段であり、正義の行いだったのだ」と。まさに目的のためなら、あれほどの大量虐殺でも、どんな手段でも構わない、それは正義であるという意見です。しかし、キング牧師の説教を読めば、それは大きな欺瞞であり、誤りであることが良く分かります。
  どんなに崇高な目的を掲げても、そのために手段として不正義なことを行うならば、それは不正義なのです。目的は決して手段を正当化しない。繰り返して言いますが、私たちは破壊的な手段で建設的な目的を達成することはできません。それは、平和という崇高な目的を掲げて広島、長崎に投下され、大量虐殺を引き起こした原爆が、その後、実際に平和を成し遂げたかを考えればよく分かります。それは、核の競争の時代の幕を開き、さらなる混沌へと人類を導いただけではなかったでしょうか。そのせいで、私たちは核戦争による人類滅亡の危機を今もなお身近に感じています。私たちはいい加減、美辞麗句を並べて崇高な目的掲げる一方、その手段として不正義なことをやりたい放題するという悪しき癖、悪しき罪を悔い改めなければなりません。
  考えてみれば、戦争や殺戮、そうした不正義はいつも美化されてきました。「自分たちは悪いことをする。ひどいことをする。」そう言って行われる戦争や殺戮はまずなかったと言っていいでしょう。曰く「平和のため」、曰く「自国繁栄のため」、そのように目的が美化されて戦争、殺戮、侵略などの不正義が行われるのです。しかし、どれほど崇高な目的を掲げていても、その手段として不正義が行われるならば、それは不正義です。
  今、世界を見渡してみれば、北朝鮮は「自国を守るため、?栄させるため」と言ってミサイル外交を展開し、中国は「自国安定のため」と言って、香港の民主化や少数民族を抑圧する、ミャンマーでは軍がクーデターを起こし、「秩序維持のため」と言ってこれに抵抗する多数の市民を虐殺するなど、掲げられた大義名分のもとで不正義がやりたい放題されているのがあちこちで目に付きます。
  そのような中にあって、私たちは不正義を覆い隠すための偽装ではなく、本当の意味で平和という崇高な目的を掲げていかなければなりません。そしてさらに、その目的を、それに見合ったふさわしい手段で追求していかなければなりません。そのために、私たち教会はキリストの使者として、悔い改めを広く呼び掛けていきたいと願います。神の平和を、非暴力主義という神様の御心に適った手段で、皆で一緒に打ち立てていきましょう。イエス様はいつもそのただ中に、私たちと共にいてくださいます。
               お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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