2021年 5月 9日(日) 復活節 第 6主日・合同礼拝
 

「キリストの昇天―世界の主―」
 ルカによる福音書 24章50〜53節 
北村 智史

  早いもので、4月4日にイースターを迎えてから一月以上が経過しました。今週の木曜日には、私たちは「昇天日」を迎えます。この「昇天日」については、日本の教会では取り上げられることも少ないので、ご存じでない方もおられるかもしれません。文字通り、イエス・キリストの昇天を記念する日です。
  復活したイエス様は40日にわたってそのお姿を弟子たちに現されました。そして、もうすぐ弟子たちに聖霊が降って来ることを預言しながら天へと昇って行かれたのです。
  このことを記念して、教会ではイエス様の御復活を祝うイースターから40日目の木曜日を「昇天日」として祝っています。しかし、先程も申し上げましたように、日本の教会では、この日は「イースター」や「ペンテコステ」と比べると取り上げられることが少なくて、忘れられがちな祝祭日となっているように私には感じられます。しかし、キリスト教の教義では、イエス・キリストの昇天はとても重要な意味を持っているものであり、この日を忘れてしまうということは私たちの信仰にとってあまり良いことではありません。ですので、今日はイエス様の「昇天日」を控えて、イエス様の昇天にははたしてどのような意味があったのか、そのことをしっかりと確認する主日にしたいと考えています。「昇天日」の意味をしっかりと整理して今週の木曜日を迎えましょう。
  さて、先程お読みいただきました聖書個所はルカによる福音書24:50〜53です。この直前の箇所、49節を読めば、復活の主が弟子たちに、聖霊が降って来るまでは都に留まっているように指示しておかれたことが分かります。弟子たちは「来るべきもの」を待ち望まなければなりません。自分の力だけで歩み出すことはできないのです。宣教に向かって歩み出す勇気と力を与え、教会を生み出し、前進させるものが来るべき聖霊であることを、ここから私たちは知ることができるでしょう。
  そして今日の聖書個所には、手を広げながら天に昇って行くイエス様の姿が描き出されています。弟子たちは天にあるキリストを見上げ続けます。このようにすべての信仰者が天を見上げるということは、イエス・キリストがこの世界のすべての人々の救い主となられたことを私たちに物語っているように私には思われます。
  このことに関連して、私が読んだ聖書の注解書にはこんなことが書かれていました。「私たちはしばしば、キリストを自分だけのものにしようとする。自分自身の思い込みや狭い考えの枠にキリストを閉じこめ、他者が信じるキリストを否定しようとする。すべてのキリスト者が、別々に自分だけのキリストを信じているかのように思われることがある。しかしそのことはどんなに教会を、そして神を小さなものにしてきたことだろう。天に昇られたキリストを見上げることは、キリストが私ひとりのキリストではなく、自分たちの教派のキリストなのでもなく、世界のキリストであることを知り、告白することでもある。さらに視野を拡げるなら、この世界には多くの宗教があり、宗教間の対立がある。この世界のすべての人をその腕に抱く主キリストを見上げることは、この世界にあって異なる信仰に生きる人々とも、大きな祝福のうちに共に生きていくようにと、希望と勇気を与えているように思う。『讃美歌21』413「キリストの腕は」は、もとの歌詞では『キリストが地上から挙げられた時、その腕は、違いを超えてすべての人を受け入れられるために拡げられた』と歌い出されている。キリストの拡げられた腕が、この世界のすべての人々を受け入れ、抱きかかえ、祝福する腕として歌われている。そこには今日の世界における大切なメッセージがあるように思われる。」
  では省みて、私たちは世界の主、この世界のすべての人々を受け入れ、抱きかかえ、祝福されるイエス・キリストに従う者としてきちんと歩めているでしょうか。今、私たち日本の社会では、外国人の非正規滞在者を巡って入管法が改正されようとしています。しかし、この改正については問題点が多く、多くの人が反対を表明しています。
  非正規滞在者と言うと、何か悪いことをしている人たちと言うような印象を持つ方もおられるかもしれません。しかし、中には事情があって非正規滞在者となり、保護が必要な方もおられるのです。出身国で迫害を受けている人、在留資格のない親のもとに生まれた人、生活基盤が日本にしかない人など、そこには様々な事情があります。そうした事情で強制退去処分を受けても帰国を拒否する人々を、これまで日本政府は施設で長期収容し、国連や人権団体から繰り返し批判を受けてきました。こうした事態を受けて、非正規滞在者の長期収容解消に向けて今回入管法改定が行われるそうなのですが、しかしその内容は、現在の入管制度の歪みを改善するものではなく、外国人の徹底的な管理・排除を進めるものとなっているのです。
  この法案が通れば、強制送還に応じない外国人を「犯罪者」として罰することが可能になるほか、送還に応じない外国人を支援しただけで、支援者までもが「共犯者」として処罰の対象になってしまいます。また、難民申請の回数を制限し、3回目以降の難民申請を行なった者の強制送還を可能にするとしています。
そもそも日本は難民をほとんど受け入れておらず、難民認定率はわずか0.5%です。難民認定の手続きがほとんど適正に機能していない現在の状況で「難民申請が2回認められなかった者は強制送還の対象とする」という法案を可決してしまえば、多くの難民が強制送還の対象となり、命の危険にさらされてしまいます。国連の原則では「難民を彼らの生命や自由が脅威にさらされる国へ強制的に追放したり、帰還させてはいけない」と定められています。今回の改正案はこの国連の原則に反するものです。この案の実現は、国連加盟国としての責任を放棄し「難民が死んでも構わない」と国際社会に向けて宣言するのと等しい行為だと言われています。
  この法案が通れば、すでに「無権利状態」に置かれ過酷な生活を強いられている非正規滞在者への支援の手は今まで以上に遠のき、社会からの排除が進むでしょう。また、日本に逃れてきた難民の強制送還が進むことで、多くの命が失われることにも繋がります。
そうしたことは決して神様の御心ではない。そうした思いから、部落解放センターや難民移住労働者問題キリスト教連絡会など、キリスト教系の団体も多くこの改正案に反対しています。必要なのは、外国人を徹底的に管理し、排除する入管法改悪ではない。在留許可の適正化と、在留資格にかかわらず「生きる権利」が認められる社会の実現である。それこそが諸手を広げて天へと昇って行かれた、そして、今も世界のすべての人々を受け入れ、抱きかかえ、祝福しておられるイエス・キリストの御旨に適う事柄でしょう。
  まだまだ罪に溢れ、神様の御心とは程遠い今の世の中ですが、神様の懐の広さを仰ぎ見つつ、違いを超えて互いに受け入れ合う共生社会をこの日本に、また世界に打ち立てていきたいと願います。

                祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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