2021年 5月 16日(日) 復活節 第 7主日・合同礼拝
 

「カリスマ共同体を目指して」
 エフェソの信徒への手紙 4章1〜16節 
北村 智史

  復活節も第7主日を迎えました。来週には、私たちはペンテコステを迎えます。集まって礼拝している弟子たちに聖霊が降って来て教会が生まれたことを記念するこの日を来週に迎えるにあたり、私たちは今日何を確認しておくべきでしょうか。色々と考えましたが、私は、それはやはり教会に関することだと思うのです。イエス様が天へと昇って行かれてからこの世の終わりに再臨されるまで、私たちは聖霊を受けつつ、教会を建てて、この世にイエス・キリストの福音を光り輝かせていく使命を負っているわけですが、ではその教会とは果たしてどのようなものなのか。今日はこのことについてしっかりと考えていきたいと願っています。
  さて、今日取り上げました聖書個所はエフェソの信徒への手紙4:1〜16です。まず1〜6節では一致の教えが説かれています。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」と勧められています。教会というのは、神様に招かれた者同士が聖霊に満たされて平和に、愛で結ばれて一致している、そういう共同体だと言うのです。
  エフェソの信徒への手紙の著者がこのように教会の人々に呼びかけているということは、当時、教会にそうではない現実があったのでしょう。同じ新約聖書の文書であるコリントの信徒への手紙一で、パウロは教会に分裂、争いがあったことを報告していますが、このエフェソの信徒への手紙を書いた著者が所属していたエフェソの教会にも同じようなことが起きていたのかもしれません。いくら神様によって招かれた者の集まりとは言え、教会というのが人間の集まりである以上、分裂や争いは避けられないものです。
  それは、今の教会にも言えることでしょう。私が伝道師時代を過ごした甲東教会の主任の牧師は、同信会という会衆主義の流れを汲む牧師のギルドの会長をしていた人でしたから、色々な教会の人事に携わっていて、それらの教会の内情に精通した方でした。その方がよく言っていたのは、「教会はともすれば皆の性格発表会になってしまう」ということです。色々な方がエゴを発揮して、教会をめちゃくちゃにしてしまう、そのことを「性格発表会」と表現していたようですが、教会にはこうしたことが良く起こる、それをどうまとめて、一つの方向へ舵取りしていくかが牧師の手腕だと教えてくれました。
  胸に刻んでいる教えです。しかし、今日の聖書個所を読めば、教会をまとめるために牧師の手腕ももちろん大事ですが、それ以上に大切なものがあることに気付かされます。それは、教会の原点を絶えず意識しておくことです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である唯一の神が教会を支配しておられ、私たちの心の内におられる。そして、イエス・キリストに贖われた者として、私たちを一つに結び付けておられる。この教会の原点を忘れない限り、一致が崩れることはないでしょう。裏を返せば、私たちがエゴと罪に囚われてこの原点を忘れる時に、教会は内側から崩れてしまうのです。教会というのは神様を心の中に置き、イエス・キリストに結ばれ、聖霊に満たされて愛による一致を実現する共同体、このことをいつも忘れないようにしたいと思います。
  さて、それだけではありません。今日の聖書個所の7節以降の箇所を読めば、教会というのがどのような共同体であるのかについて、さらに示唆が与えられます。教会というのは、そこに集う「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられている」、そのような集まりだと著者は語るのです。以下、イエス・キリストの昇天と絡めてそのことが詳しく説明されています。イエス・キリストは「すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く昇られた」。その際、「人々に賜物を分け与えられた」。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされた」。「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」と著者は言います。
  ここから私たちが知ることができるのは、教会というのは「カリスマ共同体」であるということです。「カリスマ」というと、一頃流行った「カリスマ美容師」のように、何かとんでもなく優れた能力を持っているスターみたいな人々をイメージされるかもしれませんが、聖書の世界で言う「カリスマ」はそうしたものとは違います。ギリシア語で「恵み」を意味する「カリス」という言葉に由来し、「恵みの賜物」とか「霊的な賜物」と訳されます。「恵みによって、聖霊の働きの実りとして与えられる賜物」のことです。パウロはこの賜物、この「カリスマ」が教会に生きるすべてのキリスト者に与えられていると言いました。エフェソの信徒への手紙を書いた著者も、同じことを言っています。天へと昇って行かれたイエス・キリストによって、教会に集うそれぞれの者に「カリスマ」が与えられていると言うのです。教会というのは、この「カリスマ」を活かし合って建て上げられる、そして成長していく共同体に他なりません。
  教会というものに「良い」、「悪い」があるかどうかは議論しなければなりませんが、もしもあるとするならば、「良い教会」というのは、教会に集うそれぞれが神様によって恵みとして与えられている賜物、「カリスマ」を発揮して教会を支えている、教会活動を豊かにしている、そういう教会でしょう。しかしながら、日本では、教会がそのように「カリスマ共同体」となるのは決して当たり前のことではありません。
  おそらくプロテスタント教会の一般的な姿は、洗礼を受けた信徒たちが作る共同体があり、求道者も含めてその群れが集まり、礼拝をし、諸集会をする教会堂があり、礼拝、諸集会で聖書を説き、この共同体の世話をする牧師がいるというものでしょう。そして、その信徒たちの中から選ばれた役員が教会の運営のための会議をし、牧師を助けます。このような教会の営みの責任を負うのは、何と言っても牧師です。そのために、日本のプロテスタント教会では、教会の世話をするのは専ら牧師であると考えられ、牧師が孤立してしまう、そんなケースが後を絶ちません。牧師だけが、あるいは牧師と役員だけが教会の世話をし、一般の教会員は専らその世話を受けるお客さんのように考えられてしまう、そんな傾向があります。
  また、先程も申し上げましたように、教会員が「カリスマ」を発揮して教会を支える以前に、それぞれがエゴや性格の悪い部分を発揮して教会をぐちゃぐちゃにしてしまう、そんなケースも決して少なくはないのです。
  そのような中にあって、私たち、この府中の地で「良い教会」、「カリスマ共同体」を建てていくために、改めて今日の聖書個所の1〜3節の御言葉、すなわち「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」という御言葉に耳を傾けたいと思います。そして、牧師や役員だけでなく、すべての者が教会の業の担い手であるという理解を確認しておきたいと願います。
  このように私たちが愛に結ばれて「カリスマ共同体」を築いていく時、私たちは教会の奉仕を通して神の子として育まれていくことでしょう。新年度が始まっておよそ一月半、新型コロナの苦難の中ですが、今年度も私たち、それぞれの「カリスマ」を合わせて教会の業に励んでいきたいと願います。そして、その奉仕を通して、皆で「頭であるキリストに向かって成長し」、「キリストの満ちあふれる豊かさ」に与っていきたいと願います。
                 お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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