2021年 5月 30日(日) 聖霊降臨節 第 2主日・礼拝説教
 

「しわ寄せはいつも弱いところに」
 ルカによる福音書 6章 20〜26節 
北村 智史

  早いもので、5月も最後の主日になりました。当初は16日から開始されるはずだった会堂での礼拝も、政府による緊急事態宣言が延長されたことを受けて、休みを延長しています。私にとってこの5月は、皆さんのお顔が見えない寂しい期間でした。一日でも早くこの会堂で、皆さんと共に礼拝を捧げることのできる日を心待ちにしています。2020年から始まった新型コロナとの闘いもおよそ一年と半年が過ぎ、皆さんのコロナ疲れが懸念されます。本当にいつになったら終息するのだろうと思わされる新型コロナですが、この主日、神様にしっかりと重荷を背負っていただいて気分をリフレッシュしたいと思います。神様に励まされ、慰められながら、この苦難の時を共に乗り越えていきましょう。
  さて、今日お読みした聖書の箇所はルカによる福音書6:20〜26です。この中でイエス様は言いました。「貧しい人々は幸いである」、「今飢えている人々は幸いである」、「今泣いている人々は幸いである」、人々にいじめられる人々は幸いであると。皆さんはこの言葉を聞いてどう思うでしょうか。「ええ、イエス様、これらの人々のどこが幸せなの?」と、そう思うかもしれません。貧しかったり、お腹が空いていたり、悲しかったり、いじめられていたりすると、普通は悲しいです。幸せなんか感じられません。まして、イエス様の時代には、今とは比べ物にならないくらいひどい貧しさや飢え、悲しみやいじめがそこかしこにありました。そうした現実を抱えている人々のどこが幸せなのでしょう。
  実はイエス様は、貧しかったり、お腹が空いていたり、悲しかったり、いじめられていたりする現実そのものが幸せなことだと、そのように言っているのではないんですね。これらの方々を神様が必ずお救いになるから、そして、貧しい人々には神の国が与えられ、飢えている人々は満腹し、泣いている人々は笑うようになる、いじめられている人々も報われるようになる、その前提があるから幸いだと、このように仰っているんです。
 
もうすぐ神の国がやって来る。そこでは貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々、いじめられている人々が幸せになり、反対にこれらの人々を抑えつけ、いじめているこの世の支配者が報いを受け、不幸せになる、そんな運命の逆転が起こると、イエス様は今日の聖書個所の中で弟子たちにお教えになりました。そして、実際にこの神の国が成るようにイエス様は生きられたのです。
  このように、強い者に対しては厳しい態度で臨み、弱い者の側に徹底して立ち尽くされたイエス様。では、なぜ、イエス様はこれほどまでに弱い者の側に自らの身を置かれたのでしょうか。私はそれは、しわ寄せがいつも弱いところに行く社会の仕組みをイエス様がよくご存じだったからだと思うのです。そして、この社会の仕組みは今も変わることがありません。
  今は新型コロナの中でたくさんの人が苦難を味わっていますが、先日テレビでこんなニュースが放映されていました。生活が苦しい人に食材やお弁当を配る「おとな食堂」なるものが東京の聖イグナチオ教会で開かれ、そこにたくさんの人の列ができたというのです。並んでいたのは、派遣切りにあった人や母子家庭の親子、外国人といった人々でした。
  こうしたニュースを見れば、何かあれば真っ先に弱いところにしわ寄せが行く私たちの社会の構造がよく分かります。権力を持った人は放っておいても忖度されて守られるその一方で、立場の弱い人々のところにしわ寄せが行くのが私たちの社会です。
  だからこそ、私たちはイエス様の生き方に倣わなければなりません。自分のことだけを考える、あるいは一生懸命勉強してえらい人になる、それだけを目指すのではなくて、立場の弱い人の側にいつも自らの身を置いて、こうした人々が幸せになる社会を皆で目指していく、そうした生き方を志していかなければなりません。こうした生き方が私たちの社会の中に生き渡っていくならば、弱いところにしわ寄せが行くようになっている私たちの社会の仕組みも少しずつ変わっていくことでしょう。
  かつてイエス様は言われました。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。まだまだ神の国とは程遠い状況にある私たちの社会ですが、必ず神の国は実現する、そのことを信じて、弱い人を置き去りにしてしまう自己中心、無関心の罪を悔い改めていきたいと願います。イエス様と歩みを合わせて、皆で一緒に私たちの社会を良いものへと変えていきましょう。
            お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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