2021年 6月 20日(日) 聖霊降臨節 第 5主日・礼拝説教
 

「憎しみを越えるもの」
 コリントの信徒への手紙二 5章 16〜21節 
北村 智史

  人類が新型コロナとの闘いを強いられるようになっておよそ一年半が経過しました。世界中でワクチン接種が進められているとはいえ、まだまだ終息の目途が立たない日々を私たちは過ごしています。病気によって苦しむ者、亡くなる者は後を絶たず、経済的に困窮する者も多く出ています。それだけではありません。この疫病は世界の至る所で分断をもたらしました。頻発する医療従事者とその家族への差別、アジア人へのヘイトクライムなど、病気が私たちの罪と結びついてこの世界に深刻な影を落としています。心無い憎しみの言葉が世界中のあちらこちらで投げつけられている、そんな状況を前にして、改めて取り上げたいと思ったのが今日の聖書個所です。
  この中でパウロは、私たちキリスト者には神様から「和解のために奉仕する任務」が授けられていると語っています。それは一つには、神様がイエス・キリストの十字架と復活の御業を通して私たち人間と和解してくださった、その福音のためにキリスト者は奉仕をしていかなければならない、その福音をどこまでも宣べ伝えていかなければならないということでしょう。私たちキリスト者はイエス・キリストの福音を宣べ伝え、人々を悔い改めへと導いて、神様と人間との和解を進めていく、そんな使命を神様から委ねられています。
  しかし、それだけではありません。パウロが言う「和解のために奉仕する任務」の中には、人と人同士の和解のための任務も含まれていると私は思うのです。私たちキリスト者はイエス・キリストの福音を光り輝かせて、神様と人間との和解だけでなく、人と人同士の和解も進めていかなければなりません。特に新型コロナによって世界の至る所で分断が生じている今は、この任務が特に重要になっていると言えるでしょう。では、この任務を遂行していくために、私たちははたして何をしなければならないのか。今日は三浦綾子さんの小説『銃口』を取り上げながら、このことについて皆さんと一緒に考えていきたいと願っています。
  さて、この『銃口』という小説を皆さんはご存じだったでしょうか。この小説は、小学館が発行しているPR雑誌『本の窓』の1990年1月号〜1993年8月号に、およそ3年半にわたって連載された三浦綾子さん最後の小説です。この小説のモデルとなったのは、1940年に起こった思想弾圧事件、「北海道綴方教育連盟事件」に他なりません。この「綴方教育連盟事件」の「綴方」とはいわゆる作文のことで、作文(綴方)の時間に「生活をありのままに書くこと」と指導した北海道内の教員50人以上が、1940年11月から翌年1月にかけて特別高等警察によって逮捕されました。その理由は、「貧困などの課題を与えて児童に資本主義社会の矛盾を自覚させ、階級意識を醸成し、そのようにして共産主義教育をしようとした」という滅茶苦茶なものでした。しかし、こうした治安維持法違反の容疑で、12人が起訴されたのです。起訴された先生たちは、大半がその後教壇に戻ることはありませんでした。
  三浦綾子さんの小説『銃口』は、この「北海道綴方教育連盟事件」と戦争を具体的な題材にして、国の権力と庶民の相克、また人間として生きることの難しさと素晴らしさを描いた作品になっています。以下、簡単にあらすじを紹介していきましょう。
  この『銃口』は北海道の旭川に住む北森竜太という小学校3年生の男の子が、大正天皇のお葬式の日の作文(綴方)を書かされて、そこに「『悲しい』と書いてなかったではないか」と担任の先生に殴られて書き直しをさせられるという場面から始まっていきます。翌年竜太は、坂部先生という素晴らしい先生に出会って、子どもを本当に人間として大事にするその教育に感動して、自分も教師になりたいと思うようになりました。やがて成長した竜太は炭鉱町の小学校の先生になって、本当に子どもたちを熱心に愛して教えますけれども、昭和16年1月、突然警察に捕まえられてしまいます。しばらく前に出席した「綴方教育連盟」の会に名前を書いたということが治安維持法違反として疑われたわけです。何か月にもわたる拘留、尋問、そして無理やり退職願を書かされて、竜太は釈放されました。しかし、保護観察の身。やがてそのような竜太に一つの悲しい知らせが届きます。あの尊敬していた坂部先生が、自分と同じ治安維持法違反の容疑で逮捕され、尋問による拷問で死んでしまったという知らせでした。
  絶望の中に追いやられた竜太にさらに追い打ちがかかります。召集令状が来て、やがて竜太は満州、今の中国東北部に送られます。やがて日本はソ連軍が越境して来て敗戦となりますが、竜太は山田曹長という人と二人で逃げていきます。その時、朝鮮人の抗日義勇軍の一隊に捕まえられます。ところが、その抗日義勇軍の隊長が、かつて旭川でタコ部屋から脱走して竜太と竜太の父に助けられた金俊明という人でした。この金俊明に助けられて二人は無事に帰国しますが、弟は戦死していました。竜太は気力を失います。しかし、戦友の近藤上等兵の最期を知らせる手紙が来て、それを読んだ竜太は、「甘えていてはいけない。もう一度立ち上がるんだ」と決心して再び教師になります。そして、子どもたちにそれまでの自分の物語を語って聞かせるのでした。
  これが三浦綾子さんの小説『銃口』のだいたいのあらましですが、私がこれを初めて読んだ時、たかが作文で逮捕するという戦時中の思想統制の厳しさ、また多くの人を悲劇の中に追いやり、多くの人の心に深い傷を残していく戦争の悲惨さを思わされました。それらを引き起こす国の権力に恐怖を感じると共に、怒りのようなものを感じたのです。
  しかし、三浦綾子文学の研究者森下辰衛先生によりますと、三浦綾子さんが本当に語りたかったのは「世の中ひどい。国の権力ってひどい」ということではないのだそうです。『銃口』はそういう怒りの文学ではなく、希望を語る文学だとのことでした。ひどい法律ができて大変な状況の中で皆が無力感を感じたりしている時に、「それでも希望がある」と伝えるのが三浦文学の中心である。自分の人生を引っさげて自分なりの言葉で語る時、そこに大きな力が生まれる。「人間の言葉に力がある」。その力を信じ、三浦綾子さんは最後の小説『銃口』の中で遺言のようにそのことを語ったのだ。権力も言葉の力を分かっていたので、その力を恐れて「綴方事件」が起きたのだと森下先生は語ります。
  『銃口』のテーマは言葉の力。そのことを顕著に示しているのが、この物語のクライマックスとも言える場面、すなわち金俊明によって竜太が命を救われる場面でしょう。
この金俊明という人は、日本の旭川にいた頃、タコ部屋に半ば騙されて入れられてしまい、強制的に働かされていました。「これ以上ここにいたら殺されるかもしれない」。金俊明は身の危険を感じ、逃げ出します。そして、一つの納屋の中に隠れるのです。辺りは騒然とし、犬が出、警察が出て来て、「もう捕まえられたら殺される」という状況でしたが、その時に北森竜太とそのお父さんの政太郎さんが彼を助けました。その時、政太郎さんはこの暗がりの納屋の中にいた金俊明に向かって、周りの人たちが、「朝鮮人のタコ ――タコというのはお金を前借りし、人権もない劣悪な状況下で強制的に働かされていた労働者のことですが、―― 朝鮮人のタコ、怖いですね。警察に言いましょうか」と言うのを制して、こう言ったのです。「馬鹿を言うんじゃない。朝鮮人だって、タコだって、人間だ。安心して出てきなさい」。こうやって金俊明は助けられ、朝鮮に帰って行ったわけです。
  竜太が抗日義勇軍の一隊に捕らえられ、尋問されて自分の名前を名乗った時、この義勇軍の隊長となっていたこの金俊明が、「君は竜太君かー」と転がるようにして出てきました。そして、再会を喜び、何とかして竜太を助けようと、自分の部隊の隊員たちを説得するのです。竜太と山田曹長にズラリと突き付けられていた銃口。それを降ろさせたのは、紛れもない金俊明の言葉でした。金俊明はこの北森家の人たちがどんなことを自分にしてくれたかということを隊員たちに語ります。自分の中に人間を見て、人間として助けてくれたと、尊い者として見出された自身の体験を仲間に語ったのです。そして、この北森家のような人がもっとたくさんいたら、朝鮮と日本は兄弟のようになっていたはずだと語りました。そして、「この日本軍兵士を赦せない」という隊員たちに向かって土下座をして、「殺さなければならないのなら、まず私から撃て」と言ったのです。それに対して、隊員たちはやがて「隊長、分かりました」、「隊長、分かりました」と言って、その銃口を下げていきました。
  この時にこの金俊明の中にあったのは、あの北森政太郎さんが「朝鮮人だって、タコだって、人間だ」と言ってくれたことだったと思うのです。金俊明は「日本軍でも兄弟なんだ」と、その時に語りました。敵対する者の中に、蔑まれていた者の中に人間を見出していくその言葉、それを体験していた金俊明が同じようにその言葉を返していった、その愛を返していった、そういう場面だと思います。そしてそこには、まさに金俊明が通ったそれまでの人生の綴方が込められている、その言葉が隊員たちの心を打たずにはおかなかったと三浦綾子さんは書いています。人間の本物の言葉が人の心を打たずにはおかないという主題がここに隠されている訳です。
  銃口とは何か。それは敵意、威嚇、憎しみ。それに勝つものは人間を人間として見出す言葉なのだ。それが語られる時、そこに希望がある。これこそ、三浦綾子さんが小説『銃口』を通して私たちに伝えたかったことだと先程の森下先生は解説しておられます。そして、「政治、環境、家庭、そうしたものの中に問題が山ほどある中で人間を見出す眼差しを持ちましょう。自分が体験した本当の人間の物語を語ることを止めてはいけません。どうせ世の中変わらないではなく、『にもかかわらず』自分の言葉で語っていくのです」と述べておられます。
  敵対する者の中に、蔑まれていた者の中に人間を見出していく眼差し、そしてそれによって語られる本物の言葉。翻って、私たちはどれほどそうした眼差し、言葉を持つことができているでしょうか。ヘイトをする人々の中に、そうした眼差しや言葉があるとは到底思えません。あるいは、こうも思うのです。ヘイトデモに対するカウンターデモに参加する人々の中に、ヘイトをヘイトで返す人たちがいます。「ヘイトを止めろ。この〇〇が!」と、説教壇ではとても口にできないような不快語、差別語を、ヘイトをする人々に同じように投げつける人たちがいるのです。それで、果たしてヘイトを止めることができるでしょうか。
  ヘイトをヘイトで返す人たちがやっているのは、相手を「人」としてではなく、「対象」化して排除するということです。「ヘイトをする奴らは血の通った人間ではない。彼らは自分とは全く違う種類の存在。そういう狂った奴らなのだ。そんな奴らはどうせ話しても分からない」として、「モノ」のように扱い、自分との関わりから切り離してしまう、自分の人生から関わりを捨て去ってしまうということです。
  しかし、それで果たしてヘイトは無くなるのでしょうか。今日は話の冒頭で、パウロが今日の聖書個所で語っている「和解のために奉仕する任務」の中には、人と人同士の和解のための任務も含まれているのだと言いましたが、そこには当然、私たちとヘイトをしている人たちとの和解も含まれているはずです。ヘイトをしている人たちとの和解がなければ、ヘイトはなくならない。もちろんヘイトをしている人たちとすぐに和解できるとは思えませんが、彼らを「狂った連中」として「対象」化して自分の中から捨て去ってしまえばいいという話ではなく、彼らとの和解を諦めない面倒くささのようなものを私たちはもっと引き受けていかなければならないのではないでしょうか。
  ヘイトデモがひどかった川崎のオモニ(お母さん)たちは、デモをする人たちに対して、「ご飯食べにおいでよ。一緒に食べようよ」と、そのように呼びかけたと言います。敵対する者の中に人間を見出し、その隔たりを埋めていく豊かな言葉、豊かな知恵がそこにはあります。
  かつてイエス様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。人と人とが銃口を突き付け合うような、そんな憎しみと分断が渦巻くこの世界のただ中で、私たち、和解の奉仕を豊かに為していくために、まず対立する相手、憎む相手の中にも人間を見出していく眼差しをしっかりと持ちたいと願います。そして、そこから得られる人生の経験を自分なりの言葉で精一杯語っていきたいと願います。皆で一緒に言葉の力で、この世界を明るく輝かせていきましょう。
  お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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