2021年 6月 27日(日) 聖霊降臨節 第 6主日・礼拝説教
 

「社会の課題を共有する群れ」
 使徒言行録 4 章 32〜37節 
北村 智史

  6月も最後の主日を迎えました。依然として新型コロナが猛威を奮っています。そのような中にあってワクチンが唯一の希望ですが、どれほど接種が進んだでしょうか。一日でも早く接種が進んで、この疫病が終息することを願っています。この疫病では、私たちの教会も大きな影響を被りました。何度も会堂での礼拝の休止を余儀なくされ、バザーなどのイベントも中止になったりして、教会活動が大幅に縮小されてしまいました。しかし、新型コロナが猛威を奮っているこの間も、依然として私たちの社会には様々な課題が次から次へと湧き起こってきます。教会活動が縮小されても、そうした課題を担うことに無関心になることのないように気をつけたいと思います。こんな状況ですが、それでも自分たちにできることをして、社会に対する責任を果たして参りましょう。
  さて、そんな今日は聖書の中から使徒言行録4:32〜37を取り上げさせていただきました。これを読みますと、原始教会の人々がどのような生活をしていたのかがよく分かります。何と彼らはすべての持ち物を共有し、分け合っていたのでした。そのために、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と記されています。
  皆さんはこれを読んでどう思われるでしょうか。「なかなかそこまでできないよ」と、そう思われるでしょうか。確かに、今の教会で教会員一人ひとりに「財産なり、何なり、持っているものを全部教会に差し出しなさい。それを皆で分け合いましょう」と言ったなら、多くの人が戸惑われることと思うのです。今の時代、そんなことをするのは極端なイデオロギー団体かカルト宗教くらいでしょう。
  しかし、にもかかわらず、教会には原始教会で見られたような「色々なものを共有する共同体」の伝統が息づいていると私は思います。それは、各々が生活の中で得られた収入のいくらかを献金して教会を運営していくというだけのことではありません。教会は共に礼拝を守り、信仰生活を続けていく中で、既に多くのものを共有しているはずだと思うのです。
  私たちは人生の多くの時間を共有し、生まれた時から大人になるまでの記憶を共有し、誕生や出会いを共に喜び、共に別れの涙を流します。楽しいこと、辛いこと、悲しいこと、そして時には争い、傷つけ合い、そして和解や慰めを共に経験します。そして何よりも共に神様の御言葉に耳を傾け、共に祈ります。
  教会は色々な意味で人生を深いところで共有しようとする群れだと言うことができるでしょう。そうした体験を通して、教会はより強固な群れとなっていくのです。
  しかし、ここで私は思います。私たちが色々なものを共有するのは教会の中だけのことだろうかと。教会の内側でだけ色々なものを共有していれば、それでいいのでしょうか。確かに、教会の仲間内では人生を深いところで共有し合っているけれども、教会の外に関してはまるで無関心、そういうサロンのような教会は決して少なくありません。しかし、そのように教会の内側でだけ人生を共有しようとする態度が、逆に教会の外側との間に壁を作ってしまうということが往々にしてあるのではないでしょうか。
  ここで今日の聖書個所を読めば、原始教会の人々は「皆、人々から非常に好意を持たれていた」と記されています。このことは、最初期の教会が教会員ではない人々とも良い関係、コンタクトを持っていたことを示しているように私には思われます。最初の教会は決して閉鎖的な浮世離れした集団ではなかったのです。
  このことを踏まえて、今回私が参考にした注解書にはこんなことが書かれていました。「今日、教会と外の社会との間に壁が存在するとすれば、教会はそれを取り払うための努力をどれだけしてきただろうか。教会はすべての人のために存在している。教会は教会の内側の人々とだけではなく、外に向かって、この世界のすべての課題を共有しようとする開かれた共同体である。そのために教会はこの世界に置かれているのである」。
  聖霊降臨節の時期に、改めて確認しておきたい事柄です。ルカによる福音書11:5〜13のお話を思い出します。真夜中に客がやって来て「パンを三つ貸してください」と頼むが断られる、しかし執拗に頼めば必要な物は与えられるだろうというお話です。このお話は、諦めることなく神様に願い求めれば、その祈りは必ず聞かれるだろうという根気強い祈りの力を私たちに教えてくれているイエス様の譬え話ですが、にもかかわらず私には、このお話が現代の教会の姿を如実に表しているように感じられてなりません。
  現代には多くの問題があり、その闇の中でたくさんの人が疲れ果て、希望のパンを求めて教会の戸を叩きます。それに対して、教会はどのような返事をしてきたでしょうか。「面倒をかけないでくれ」。そう言って、無視や無関心を決め込んではこなかったでしょうか。結果、多くの人が失望を経験したのです。その失望のために、教会を去って行ってしまった人も多くいます。それでも、人生の真夜中、世界の真夜中の中で教会の戸を叩く人は後を絶たないでしょう。私たちはいい加減、それらの人々に希望のパンを与えなければなりません。そのために、私たちは教会の外に向かって扉を開かなければならない、そして、この世界の課題を共有し、それら平和のための闘いや社会正義を求める闘いに積極的に参加していかなければなりません。
  「教会は、預言者的熱意を取りもどさなければ、道徳的・霊的権威のない、見当はずれの社会クラブになってしまうだろう」。キング牧師の言葉です。この言葉に真摯に耳を傾けて、外に開かれた教会、この世界のすべての課題を共有する群れをこの府中の地に形作っていきたいと願います。様々な問題が存在し、その闇の中で孤独な旅人たちが行き交うこの世界ですが、そのただ中で、人々に光とパンを豊かに提供していきたい。そういう愛の団体として東京府中教会を建てていきたいと願います。

        お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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