2022年 1月 9日(日) 降誕節 第 3主日礼拝説教
 

「ストップ!命の線引き」
マルコによる福音書 1章 1〜10節 
北村 智史

  昨年の12月14日に、東京同宗連の研修で埼玉県の丸木美術館の見学に行ってきました。丸木美術館とは、画家の丸木位里・丸木俊夫妻が、自分たちで共同制作した《原爆の図》という作品を、誰でもいつでもここにさえ来れば見ることができるようにという思いを込めて建てた美術館です。夫の丸木位里さんが広島出身ということで、広島に多くの親族が住んでいたことから、原子爆弾が投下された直後、丸木夫妻は東京に住んでおられましたが、いち早く広島にかけつけて救援活動を行いました。そして、そこで悲惨な原爆の現実を目の当たりにしたのです。
  戦後の米軍占領下では原爆被害の報道が厳しい検閲を受けていましたが、絵画はその検閲の対象から外れていたこともあり、丸木夫妻は当時隠されていた原爆の被害の現実を伝えていかなければという思いから、やがて夫婦共同制作で《原爆の図》の制作に取り組みます。そして日本全国を巡回し、公民館や寺院、学校の体育館などで展覧会を開催。被爆の実情を広く伝えました。その後、30年以上の歳月をかけて15部の連作を完成。その他にも、戦争や公害など、人間が人間を傷つけ破壊することの愚かさを生涯かけて描き続けました。
  今回、私が訪問した丸木美術館には、その《原爆の図》の連作、また《南京大虐殺の図》、《アウシュビッツの図》、《水俣の図》などが展示されていましたが、それらを拝見しますと、本当に人間の罪、その深さを目の当たりにさせられる思いがいたしました。今回、いろいろと事情がありまして、15部ある《原爆の図》のすべてを見ることは叶いませんでしたが、それでもたくさんの《原爆の図》の作品を拝見し、これほどの大量虐殺を引き起こす核兵器の恐ろしさを思わされました。こんな悲劇を繰り返してはならない。こんな武器は絶対に世界から無くさなければならない。にもかかわらず、核軍縮が一向に進まない今のこの世界の現実を苦々しく思います。
  また、今回《原爆の図》だけでなく、《南京大虐殺の図》なども拝見しまして、その時に思わされたのは、原爆について考える時には、日本のこうした加害性も忘れてはならないのだということです。アジアに対して侵略戦争を引き起こした、その加害、その罪の果てに原爆投下という悲劇があった。原爆を落とした国、また今も核兵器の保有を止めようとしない国々を単純に批判するだけでなくて、その悔い改めも蔑ろにしてはならないと思うのです。
 ちなみに、《原爆の図》では、後の作品になればなるほど複雑なテーマが描かれていまして、広島の原爆では米軍捕虜も犠牲になったのだということ、また生き残った米軍捕虜に対して、生き残った日本人が報復としてリンチを加え、虐殺したこと、さらには強制連行で日本に連れてこられた朝鮮人が、生き残っても差別され、治療の対象から外されてたくさん亡くなったということなどが描かれていました。日本人だろうがアメリカ人だろうが朝鮮人だろうが、区別なく無差別に殺していく原子爆弾。それに対して、アメリカ人はリンチ、朝鮮人は治療しないと命の線引きを行い、自分の同胞だけを救護した日本人。生と死の間で人々が苦しむ現場においてすら命の線引きを行う人間の罪を深く思わされました。
  今日の聖書個所の後半部、マルコによる福音書1:9〜11にはイエス様が洗礼を受けられる場面が記されています。イエス様はこのようにして洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊を受けて、さらに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の愛の御声を聞くところから御自分の公の活動を開始されたわけですが、その公生涯はまさに命の線引きをしないということで貫かれていたと思うのです。
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という御言葉に象徴されるように、イエス様は当時「罪人」とレッテルを貼られ、社会から疎外されて苦しんでいた人々、神様の救いから漏れたと当時考えられていた人々、よって愛の対象から除外されてしまっていた人々に率先して寄り添っていかれました。こうした人々の救いのために懸命に働かれ、こうした人々を社会の隅に追いやる当時のユダヤの律法主義体制と闘い、十字架と復活の御業によって、ユダヤ人だけでなく、すべての人々の救いを成し遂げられたのです。イエス様の活動、それは当時存在していた命の線引きを壊す働きでした。一時、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と異邦人の救いを拒否されたこともありましたが、それも思い直されたように、神様の救いはイエス様によってどこまでも広がっていきます。
  クリスマスを迎えてからの降誕節のシーズン、私たちはこれから礼拝でイエス様の生涯を何度も取り上げて読んでいくことになると思いますが、その生涯は命の線引きを壊していくということで貫かれているということを、今日頭の中に入れておきたいと思います。
  また、マルコによる福音書が1:9以後でイエス様の生涯について語っていく前に、洗礼者ヨハネの活動をまず置いていることの意味も、私たち、今日しっかりと受け止めましょう。洗礼者ヨハネの働き、それは道備えです。人々を悔い改めさせて、イエス様が来られる心の備えをさせるのです。マルコによる福音書がこうした洗礼者ヨハネの活動から始まっているということは、まず己の罪をしっかりと悔い改めて心を整えた上で、イエス様の生涯を読んでいって欲しいということでしょう。
  今日の主日礼拝以後、イエス様の生涯を読んでいく前にまず悔い改めるべき私たちの罪、それはやはり命に対して線引きをしてしまうという罪です。今日はお話の冒頭で、広島原爆の最中にも、朝鮮人だからということで治療してもらえなかった、また生き残った米軍捕虜も原爆を落とした敵だからということで治療されるどころか、リンチされ、殺されたという命の線引きがあったことをお伝えしましたが、こうした命の線引きがいかに神様の愛、イエス様の愛から程遠いものかを私たちは知らなければなりません。
  最近では、「障害者は生産性がない。社会に迷惑をかけるだけの存在だ。だから殺した」という津久井やまゆり園の事件が思い浮かびますが、そうした生産性、効率で命の線引きを行う優性思想など以ての外です。教会はイエス様に従う群れとして、いかなる命の線引きにも反対します。敵だろうが味方だろうが、何人だろうが、すべての命が神様に愛されているかけがえのない存在であるということを、今日しっかりと確認しましょう。願わくは、今日以降、この世界から命が線引きされる悲劇が無くなりますように。私たち人間の罪をしっかりと悔い改めて、いつでもすべての命が大切にされる平和な世界を皆で一緒に打ち建てていきたいと願います。

           祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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