2022年 1月16日(日) 降誕節 第 4主日礼拝説教
 

「神の国は観念ではない」
マルコによる福音書 1章 14〜15節・ヨハネの黙示録21章1〜4節 
北村 智史

 毎年西東京教区では、2月11日の「信教の自由を守る日」を覚えて集会を開いています。今年は2月23日(水/休日)に「世に遣わされた者として」というテーマで集会が開かれることになりました。私を含めた4人のキリスト者から、この世に遣わされた者としてそれぞれの現場の声を聞くという内容です。
  私は部落差別問題に関わってきたこれまでの経験から被差別の現場の話をしようと思っていますが、他の方々はと言うと、アジアの和解の問題に取り組んでこられたキリスト教学校の社会科の教師であります佐藤飛文先生はその教育現場での声を発してくださいますし、沖縄に深くかかわって来られた西国分寺教会牧師の北原葉子先生はその沖縄の現場の声を、また入管問題に深くかかわって来られた原町田教会牧師の宮島牧人先生はその入管の現場の声を発してくださいます。
  こうした4人の現場の声を聞いてもらい、様々な問題が山積するこの時代に私たちはキリスト者として、世に遣わされた者としてどのように生きるのかを、それぞれの方に考えていただくというのが今回の集会の狙いです。2月23日(水/休日)の午後2時〜4時にかけてzoomで行われますので、興味のある方は私までご連絡ください。後日zoom招待のメールを送らせていただきます。一人でも多くの方にご参加いただければ幸いです。
  さて、そういう訳で集会当日は、私の発題ではまず部落差別とは何なのかというガイダンスを行いまして、なぜその部落差別問題に私が関わっているのか、信仰の問題と絡めてお話しし、さらに日本基督教団に部落解放センターができた経緯、また同宗連という同和問題に取り組む宗教の集まりができた経緯をお話ししまして、その解放の輪に多くの方々に加わってもらうよう呼び掛けたいと考えています。そして、今日はその発題の二つ目の部分、なぜ私が部落差別問題を初め人権問題に関わっているのか、そこにどのような信仰理解があるのか、皆さんに聞いていただきたいと考えています。今日の私のお話を聞きまして、その他のお話ですね、部落差別とは何なのかとか、部落解放センターや同宗連ができた経緯についても是非聞きたいと思われた方はぜひ2/23の集会に参加していただければ幸いです。
  さて、そういう訳で今日は私が部落差別問題を初め人権問題に関わっているその理由について、信仰上の観点からお話ししたいと思うのですが、そのために二か所、聖書個所を読んでいただきました。マルコによる福音書1:14〜15とヨハネの黙示録21:1〜4です。
  まずマルコによる福音書の方を見ていきましょう。ここには、イエス様がガリラヤで伝道を始められた時のことが記されています。そこでイエス様が言われたのは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということでした。イエス様は御自分の到来によってもう間もなく神の国がやって来る、そのことを伝道の初めに人々にお告げになったのです。これが、イエス様が語られた神の福音でした。
  そして、イエス様はこれ以後の御自分の生涯の活動を通してそのことを証しされたのです。イエス様はその生涯を通して神の国運動を展開されたと言われる所以はここにあります。新約聖書で「神の国」と訳されている言葉は、ギリシア語の原語では「神の支配」という意味の言葉ですが、イエス様はその生涯を通してこの「神の国」、「神の支配」が成るように働かれました。
  「罪人」とレッテルを貼られ、社会から疎外されて苦しむ人々に徹底して寄り添い、ユダヤ教の律法主義体制と闘い、そして十字架と復活の御業を通して、すべての人々が神様の御支配のもと、永遠の命に安らかに憩うことを確かなものとされたのです。私たちは終わりの日には皆が神様の御支配に与ることができるという確信と希望をイエス様から与えられています。
  今日はマルコによる福音書の他にもう一つ、ヨハネの黙示録21:1〜4を取り上げさせていただきましたが、その中の3〜4節にはこんな御言葉が記されています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。この世界には血と涙が溢れているけれども、私たちのこの現実は神様の最終的な勝利の中に飲み込まれていく。これが、私たちキリスト者が信じて宣べ伝えている福音です。
  さて、問題はこうした終末の希望に関して、私たちが「終末」、「終わりの日」というものをどれくらいの距離に感じているかということだと思います。イエス様が伝道の第一声に「神の国は近づいた」と述べて、もう間もなく神の国がやって来ると呼び掛けておられることからも明らかなように、イエス様の時代、終末は本当にすぐと言いますか、差し迫ったものと考えられていました。しかし、科学が発達した私たちの時代には、少なくとも今日、明日という短いスパンで終末がやって来るとは到底考えられません。もちろん明日にでも核戦争が起きてしまえば、すぐに終末がやって来るのかもしれませんが、そうしたイレギュラーかつ悲惨な過ちがない限り、終末というのは遥か遥か遠い先の出来事のように感じられてしまいます。
  そのために、私たちは終わりの日に成し遂げられる「神の国」、「神の支配」を、この世とは切り離された彼岸の事柄のように考えたり、あるいは観念のように捉えたりしてはいないでしょうか。天国のように、死んだら入る所、あるいはそういう観念。「神の国」、「神の支配」をそういう風に捉えている人は決して少なくないと私は思います。結果、神様の将来の希望が私たちの「今、ここ」を変えていく力とならないのです。こうした考え方、捉え方のもとでは、「今、この世界では苦しくても、『神の国』では幸せになれるんだから」と、今現実に苦しでいる人々にこの世からの現実逃避を進めてしまうことさえ起こります。そこでは、カール・マルクスが「宗教は阿片である」と批判したように、宗教が民衆に諦めという名の慰めを説いて、現実の不幸を改革するために立ち上がるのを妨げることになってしまうでしょう。
  実際、そうしたことが批判されて希望の神学、解放の神学なるものができる前のキリスト者の被差別者に対する言説、あるいは日本基督教団に部落解放センターができ、宗教者が結束して同宗連(「同和問題」に取り組む宗教教団連帯会議)を立ち上げるなどする前の被差別者に対する宗教者の言説はそのようなものでした。そこで展開されたキリスト教の神学、あるいは宗教の教学は、超世界的、彼岸的な「神の国」、「仏の国」、そうしたものを人参としてぶら下げて、今を我慢することを強いるような、まさに諦めの教学とでも言うべきものだったのです。
  しかし、「神の国」、「神の支配」というものは決してそのようなものではありません。それは神様から私たちのもとに来る確かな現実であり、あの世ではなく、あくまでもこの世で成し遂げられるものです。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」。イエス様がこのように述べて、生涯を通して苦しむ人々に寄り添い、理不尽な現実と闘い続け、この「神の国」、「神の支配」が現実に成るように働かれたことを私たちは忘れてはなりません。私たちもまたイエス様に従う者として、「神の国」、「神の支配」が現実になるように働いていかなければならないのです。
  このことに関連して、先日、同宗連の講演である方が、「『神の国』、『仏の国』は決して観念ではない。それは宗教者の実践によって現実に証しされるものである」と仰っておられましたが、私は本当にその通りだと思います。神様の救いの約束、終末の希望、それは今日、私たちによっても実践されなければならない。クリスマスの出来事が私たちに示してくれているように、神様は具体的な人間とその苦しみとを通り過ぎていくようなことはなさらず、むしろその苦しみに参与され、そこから助け出す覚悟を持っておられる方である。この神様と共に、私たちは御国の写し絵をこの世界に描いていかなければならない。「神の国」を観念として語るのではなく、「神の国」が現実になるように終末の希望を先取りしていかなければならない。これが私の信仰であり、私が部落差別問題を初め人権問題に関わっている理由です。
  先程の同宗連のある方がこんなことも言っておられました。「私たちは宗教者としていかに生きるか問われている。宗教とはいったい何であるのか。それは人の痛みの分かる人間になる、そしてそれを実践するということなのだ」と。人間の救済、究極的な救いはその先にあるのでしょう。私が思うに、いかに多くの方が、具体的な人間の不安や苦悩、喜びや戸惑いといったものを、そんなことはどうでもよいと言わんばかりに乱暴に飛び越えて救いを語っていることでしょうか。そこでは未来ばかりがユートピアとして輝きすぎていて、人間の端的な「今」と「ここで」が見失われてしまっています。
 聖書的な希望というのは決してそういうものではありません。今日のヨハネの黙示録の個所でも、「神は……彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と書かれていまして、裏を返せば終わりの日まで私たち人間には死とその仲間、すなわち悲しみと嘆きと労苦がつきまとっていることがしっかりと言及されています。これが私たちの現実です。人間の目には涙がある。このことを知らない人間はどこにもいないでしょう。それらは私たちの周りに、また私たちの生活の中に溢れています。これが私たちの道であり、世界です。これらを無視して救いを語ることなど、私たちには許されていません。
  願わくは私たちが語る福音、神様の救いの言葉がまことに真実味に溢れたものとなりますように。そのために、しっかりとこの世の苦しみの現実、涙の現実に関わっていきたい、人を苦しみから解き放っていく解放の輪をどこまでも広げていきたいと願います。イエス様と共に、「神の国」「神の支配」を皆でこの世界に打ち建てていきましょう。

       お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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