2022年 1月30日(日) 降誕節 第 6主日 礼拝説教
 

「人間とは何ものか?」
詩編 8 編 1〜10節 
北村 智史

 今日は、「人間とは何ものか」という説教題でお話をさせていただきます。「人間とは何ものか」、この問いは人類の歴史が始まって以来、繰り返し問われてきた本質的な問いであると言えるでしょう。これまでこの問いに取り組んできたのは、何も優れた思想家たちだけでは決してありません。この問いは、私たちの誰もが一度は考えたことのあるものだと私は思うのです。
  「人間とは何ものか」。私自身、この問いを激しく問うたのは、東日本大震災からおよそ半年が経って、被災地にボランティアに行った時でした。当時、被災地の方々は震災から少し時間が経ち、少しずつ瓦礫の撤去や住まいの確保が進んでいく中で、改めて「自分たちがどれほど多くのものを、またかけがえのないものを失ったのか」、「これからどのようにしてこの生活を立て直していけばよいのか」といった喪失感、絶望感と向き合わされていました。ボランティアでは石巻栄光教会・栄光幼稚園という所で夏祭りを行い、そうした人々に少しでも元気を取り戻してもらおうという活動を行ったのですが、こんなにも大勢の若者が一つ所に集まって、自分に何ができるか分からないその中で、懸命に復興を支えようとしている、被災された方々もショックで心がいっぱいのはずなのに、「わざわざ遠くから来てくれて、本当にありがとうね」と目に涙を浮かべながら、祭りで焼きそばなどを焼いたりする私たちをうちわで扇ぎ、気遣ってくれる、そして自分が経験したこと、今抱えている不安や苦労などを打ち明けてくださる、そのような中で、私はどん底の中にも決して輝きを失うことのない人間の光の部分に触れることができたように感じました。
  しかし、被災地・宮城県での私の経験は、これで終わりではなかったのです。帰り、石巻から仙台駅に向かうバスの中で、私は人間が持つ闇の部分にも触れることになりました。
疲れた体でバスに揺られている時、私は車内であるニュースが流れてくるのを聞いたのです。それは、当時、反政府デモに対する武力弾圧が続いていた中東シリアでの情勢を伝えるものでした。ニュースによりますと、シリアでは何百人という人がサッカー場で集団処刑されるなど、非人道的な方法で、2011年の3〜7月の間だけで1900人以上もの人が殺されたということでした。
 このニュースを聞いた時、私は「いったい人間というのは何なのだろうか」と考えざるを得ませんでした。被災地では、一人の人間が瓦礫の下に埋もれていたならば、たった一つしかないかけがえのない命を何とかして救おうと懸命に力を合わせます。また、今回のワークのように、自分に何ができるか分からないその葛藤に苦しみながらも力を合わせ、被災者、ボランティアといった垣根を越えて皆でなんとか一緒に復興に向けて歩んでいこうとします。一方で、その同じ人間が命をまるでモノのように捉えて、1900人以上もの人間を殺し、発砲をためらった仲間の兵士をも撃ち殺してしまうのです。
  人間に関するこの事実を突き付けられて、私は自分たち人間が光と闇、絶望と希望、罪と救いとを同時に併せ持った存在であることを痛感させられました。「人間とは何ものか」、この問いを前に私が思うのは、人間とは善と悪とを併せ持った限りなくグレーな存在であるということです。だからこそ、私たちは神様の導きを必要とするのでしょう。
  では、他でもない聖書は「人間とは何ものか」という問いにどのように答えているのでしょうか。先程お読みいただきましたのは、詩編8:1〜10です。この中で詩人はこのように歌っています。「あなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。/人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。/神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。/羊も牛も、野の獣も/空の鳥、海の魚、海路を渡るものも」。
  ここから響いてくるのは、人間に対する称賛です。人間に対してこれほどの賛辞を送った思想家がかつていたでしょうか。こうした聖書の御言葉は、ともすれば20世紀前半の、私たちが2度の世界大戦を経験する前の人々の人間に対する捉え方を彷彿とさせます。科学で様々な可能性を切り開く人間の性質は本質的に善であると楽天的に考え、文明が地上の楽園を目指して発展しつつある、人間は神様に依り頼まなくても、人間の科学と技術の力に依って救いを成し遂げることができると盲目的に信じ、二度の世界大戦のすさまじい凶暴さの狂気、誤りに至ってしまった、あの人間観です。
  なるほど人間は確かに豊かで創造的で、他の被造物とは比べ物にならない存在かもしれません。しかし、同時に人間は破壊的なこと、悪意に満ちたこと、狡猾なことなど、どんなことでもやってのけます。人間はなるほど偉大な発見をしてきました。しかし、それらをすべて善いことばかりに用いてきたわけではありません。むしろ破壊のために用いてきました。確かに自然の力を驚異的な仕方で活用し、それで私たちの生活は大いに便利になりましたが、それによって環境も破壊し、戦争や大量虐殺も引き起こしてきたのが私たち人間の現実です。
  では、聖書はただ楽観的に人間に対して賛辞を送るだけで、人間の抱えるこうした両義性、闇の部分には言及しないのでしょうか。そうではありません。この詩編8編はダビデの詩とされています。このダビデという紀元前10世紀のイスラエルの王様は偉大な人物ではありましたが、他人の妻を自分のものとするためにその夫をわざと戦地で死なせてしまうように仕向けて神様に裁かれた人物でもあり、自分という人間の罪深い、悲惨に満ちた心の狂いを経験し、何よりも悔やんだ聖書上の人物に他なりません。
  同じくダビデの詩とされている詩編51編を読めば、そこでは彼が自分の失敗の深淵を見つめながら、罪の赦しと新しい心を持つことを求めて叫んでいる様子が描かれています。「あなたに背いたことをわたしは知っています。/わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。/……(中略)……神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」。
  こうした詩編の御言葉が私たちに教えてくれるのは、聖書という書物が決して人間という存在を楽観視してはいないということです。聖書は人間を褒め称えるべき善い存在、素晴らしい存在として描くだけではなくて、その闇の部分、罪の部分もきちんと描いています。なぜなら聖書は、神様によってもともとは善い存在として造られた、しかし罪に堕ちてしまった人間のその罪を徹底的に描き、そこからの悔い改め、原点回帰を求める書物だからです。「人間とは何ものか」。この問いを前に、私たちはただただ詩編8編の人間を称賛する言葉に浮かれて酔いしれていることはできません。
  けれども、詩編8編には、「人間とは何ものか」という意味で、私たちにとって決定的な問いが記されています。それが5節です。「あなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。/人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。私はこれこそ、「人間とは何ものか」という問いに対する聖書の決定的な答えだと思います。人間が神様によって真実に覚えられている。私たちはもともとは神様によって善い存在として造られたが、罪に堕ちてしまった、その意味で善悪を併せ持った限りなくグレーな存在であるが、そんな私たちを神様は決してお見捨てにならない。私たちのために心を砕き、イエス・キリストのゆえに神の子として受け入れ、最後には救いへと導き給う。まことに「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。この慰めこそが聖書の中心的な使信であり、旧新約聖書に記されている福音なのです。
  では、人間に対するこのような見方は、今を生きる私たちにとってどのような意味を持つでしょうか。私はこのことを、人間の権利、「人権」という観点から見つめてみたいと思います。なぜなら、聖書の人間観はこの「人権」に私たちの目を開いてくれると思うからです。
  はたして、私たち人間存在の権利はどこにその基盤を持っているのでしょうか。今日、私たちは頻繁に「人権」ということについて語ります。私自身、部落差別問題に関しては日本基督教団・部落解放センターの運営委員、また東京同宗連の常任委員として、そして「障害者」の問題に関しては教団の「障がい」を考える小委員会の委員、またNCCの「障害者」と教会問題委員会の委員として、この「人権」の問題に取り組んできました。それにはきちんとした理由があります。私たちはまさにこの人権が多方面から拒否されている時代に生きているからです。女性、セクシャルマイノリティの人々、部落の人々、障がい者、在日外国人、沖縄、アイヌの人々などなど、今現在「人権」を脅かされているマイノリティの人々を挙げれば、枚挙に暇がありません。世界でも黒人に対する差別やロヒンギャに対する差別などがあり、このコロナにおいても、医療従事者に対する差別やアジア人に対するヘイトクライムなどが問題となりました。
  近年、私が最もショックを受けたのが、津久井やまゆり園の事件です。優生思想に基づくヘイト・クライムと言うべきこの事件は、私たちの社会に横たわっている問題を浮き彫りにしたと私は思います。私たちが生きているこの社会には、人の命を生産性だけで測ろうとする、そうして生産性のない弱者を切り捨てようとする、そんな価値観が横行してはいないでしょうか。「LGBTの人々は子どもを作らない、つまり生産性がない。だから、そこに税金を投入するべきではない」と発言した自民党の杉田水脈議員然り、「障がい者は役に立たず、精神的にも肉体的にも経済的にも、周囲の者に、また社会に負担をかけるだけの存在だ。そんな障がい者は安楽死させるべきだと考えて犯行に及んだ」と言う「津久井やまゆり園事件」の犯人然り。この二人が特別異常だったのだと考えて、それで済ませてしまうことは容易でしょう。しかし、私はこの二人の事件は、決して私たちと無関係ではない、私たち人間の心の中にある闇を露わにした事件だったと思うのです。
  考えてみれば、これまで、人の命はいつでも生産性で測られてきました。戦争中は戦争に役立つ人間が生産性があると見なされたわけです。そうして、戦争に役立たない人間は、生産性がないとして排除されました。ナチスドイツでは、20万人もの障がい者がガス室へ送られたと言われます。では、今はどうでしょうか。今は経済に役立つ人間が生産性があると見なされます。そして、経済に役立たない人間は社会から排除されてしまいます。
  このように、私たちの社会では常に人の命が生産性という観点から、あるいは「役立つ」、「役立たない」という観点から測られてきました。生産性と能率と成功が決定的に物を言う社会、それが私たちの社会です。
  しかし、人間の究極的な譲り渡すことのできない権利、すなわち人間を人間らしくするものの最後決定的な基準が問題とされる時、今日の詩編と共に聖書全体はこうした見解とは全く異なる方向を明らかに指し示しています。「あなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。/人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。この御言葉に言い表されているように、人間の生存の権利は、人間が生まれつき、あるいは生涯の中で獲得した能力や業績に、あるいは立派な仕事によって蓄積された財産などにかかっているわけではありません。人間は自分が創造するもの以上の存在です。人間は自分が達成した業績全体を越えた、それ以上の者なのです。もちろん、自分の罪や失敗以上の者です。私たちが生きる権利というのは、自分たちの人生の成功や失敗を越えたところで神様が私たちを覚えていてくださり、受け入れてくださるところにその根拠を持っているのです。
  フィリピの信徒への手紙3:20の御言葉を思い出します。あえて口語訳で引用させていただきますが、「わたしたちの国籍は天にあります」という御言葉です。この御言葉に言い表されているように、いかなる人間も誰からも奪い去られることのない一つの市民権を有しています。すなわち、神様によって根拠づけられ、イエス・キリストによって獲得された、それゆえ何人にも譲り渡すべきではない人間の尊厳というものが存在するのです。私たちがそれを獲得したのでもなければ、どこかの体制がそれを私たちに貸し与えたというのでもありません。それは神様から贈られたものです。そして、それゆえにいかなる人も理由を付けて私たちから取り上げることのできないものです。
  今日はこれまで、「人間とは何ものか」ということについて考えてきました。人間とは善悪を併せ持った限りなくグレーな存在であり、そのゆえに様々な罪の悲劇をこの世界の中で引き起こしてしまいます。しかし、私たちは一人ひとり、神様によって真実に、誠実に覚えられている存在であり、そのことのゆえに誰にも譲り渡すことのできない尊厳、生存の権利、「人権」を有しています。私たちは、神様が私たちを誠実に覚えていてくださるその恵みによって、その権利が基礎づけられているのだ。今日、このことをしっかりと確認し、この世界の中で誰もこうした「人権」を奪われる悲劇が起きないように闘っていきたいと願います。願わくは神様に愛されてあるすべての命が尊ばれる社会、すべての人間が神様に由来するその権利を保証される社会が実現しますように。このために祈りを合わせ、行動していく、そのような教会を皆さんと一緒にこの府中の地に打ち建てていきましょう。

        お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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