2022年 2月 6日(日) 降誕節 第 7主日 礼拝説教
 

「そばにいるよ」
マルコによる福音書 4章 35〜41節 
北村 智史

  2月に入りました。子どもたちは3学期の半ばを過ごしていることと思います。日本全国でオミクロン株の感染が拡大していますが、学校生活に影響が出てはいないでしょうか。特に受験生は大変だと思います。子どもたちの心身の健康と生活が守られますように、また一日でも早く新型コロナが収束しますように神様にお祈りしています。そして、今日は人生の中で苦しい時、辛い時に私たちはどうするのかという、そんなお話をしていきたいと考えています。
  さて、先程は聖書の中からマルコによる福音書4:35〜41をお読みしました。どんなことが書かれてあったでしょうか。ある日の夕方のことです。イエス様とお弟子さんたちは湖の向こう岸に渡ろうと船に乗っていました。すると、船は嵐に見舞われたのです。「大変、大変。このままでは船が沈んでしまう。」お弟子さんたちは大慌てです。けれども、イエス様はそんなお弟子さんたちの不安はどこ吹く風か、船の前の方ですやすやと眠っておられました。「イエス様、眠っておられる場合じゃないですよ。私たちが溺れても構わないのですか?」お弟子さんたちは慌ててイエス様を起こしました。すると、イエス様は起き上がって、風を叱りつけ、湖に「黙れ。静まれ」とお命じになりました。すると、嵐はすっかり収まって湖は穏やかになったのです。これには、お弟子さんたちもびっくりです。イエス様はお弟子さんたちに言われました。「どうして私が一緒にいるのに怖がるの?私を信じなさい。」お弟子さんたちは、「いったい、この方はどなたなのだろう。こんな力を持っているなんて」と互いに言い合いました。
  これが今日のお話です。このお話の中で、イエス様の力に触れたお弟子さんたちは「いったい、この方はどなたなのだろう」と考えましたが、イエス様は私たちの救い主であり、「インマヌエル」の神様なんですね。「インマヌエル」の神様とは、どんな時も私たちと共にいてくださり、私たちを見捨てない、そして大きな力で私たちを守り、救いへと導いてくださる神様です。
  今日のお話の中でイエス様とお弟子さんたちが嵐を経験したように、私たちもまたその人生の中で嵐を経験することがあります。悲しい出来事だったり、辛い出来事だったり、ショックな出来事だったり、そんな出来事が思いがけず人生の中で起こってきて、「もうだめだ」と思う時がやって来たりします。そんな時、私たちは普段どれほど神様、イエス様のことを信じていても、どうしてもお弟子さんたちが「溺れても構わないのですか」と問うたように、「私たちがどうなっても構わないのですか」と責めるように神様、イエス様を問いただしたくなってしまいます。けれども今日のお話は、そんな時になお「怖がるな。決してあなたを見捨てない私を信じろ」と力強く訴えてくるイエス・キリストに私たちを出会わせてくれるのではないでしょうか。
  このことに関連して、『こころの友』という機関紙に興味深い記事が載っていました。「あなたへの手紙」というコーナーで、「あなたの苦しみや悲しみを受けとめる場所」というタイトルで書かれた、福岡県・周(す)船寺(せんじ)教会牧師の遠藤清美先生の記事です。この中で遠藤先生は、ある時教会にやって来られたある方に対して、こんなメッセージを送っておられました。
 「あなたが初めて教会の門をくぐった日から、だいぶたちました。私は、あの日のあなたの悲痛な面持ちを、今でも忘れることができません。すっかり陽が落ち、教会の鍵を閉めようとしたときのことです。扉の向こうにあなたがいて、『祈らせてください』と、ただひと言おっしゃいました。あなたの顔には泣きはらした痕がありました。
  あなたは、家族の身に起こったあまりの悲惨な出来事に心が押しつぶされ、どうしようもなくなって、いつも見ていた教会の扉をたたいたのだと言いました。声を絞り出し、嗚咽しながら心の奥の苦しみを語り始めたあなたを前に、私も慟哭しました。それは、誰にも負いきれないほどの、悪夢のようなつらい出来事だったからです。
  祈る以外なすすべもなく、私たちは泣きながら、礼拝堂の十字架に向かい必死に神さまの助けを求めました。礼拝堂が、2人の泣きじゃくる声と祈りで、いっぱいになったことを覚えています。きっとその声を聴き、泣きはらすあなたの背中をさすってくださる方がおられたのでしょう。あなたはしばらく祈り続けた後、少し和らいだ顔を見せ帰って行きました。
  それからも、あなたは祈るために度々教会を訪れました。共に祈りを合わせた後、あなたがひとりで祈ることもありました。一緒にお茶を飲み、仕事の話や悩みを聞くこともありました。恋人のことや、将来のことまで話してくださったときもありました。
  そうした日々が続き、あなたの顔に少しずつ笑みが浮かぶようになりました。平安の糸口が見えたのでしょうか。それとも、安らげる場所があることに気づいたのでしょうか。あなたの笑顔に会うたびに、私はとてもほっとしたのを覚えています。助けを求めるあなたの思いが神さまに届いたことを、あなたのほほえみが知らせてくれたからです。
  私がどんなに喜んでいたか、おわかりになっていたでしょうか。あなたの笑みは私の笑みでもありました。何よりも神さまの喜びの笑みであったのです。
  あなたは、クリスチャンではないと言いました。しかし神さまは、クリスチャンであってもなくても分け隔てしません。あの日あなたを教会に導いたのは、神さまです。
  時計の針を元に戻すことができたら、どんなに良いかと私も思います。でもそれができなくても、あなたの苦しみや悲しみを受けとめる場所があることを、どうぞ覚えていてください。教会は、祈りの場所、安らぎの場所、共に泣き、共に喜ぶ場所。いつも、あなたをお待ちしています。」
  この記事を読んだ時、私は「ああ、教会にやって来られたこの方は遠藤先生に寄り添われる中で、神様、イエス様が共にいてくださることに気づいたんだなあ。そして、神様、イエス様がこの方の苦しみや悲しみを受けとめてくださったんだなあ」と素直に思わされました。悲しみの時、苦しみの時、私たちはどうしても神様、イエス様を遠くに感じてしまいます。そして、ともすれば見失ってしまいます。けれども、そんな時、実は神様、イエス様は私たちのすぐそばで、私たちの背中をさすってくれているんですね。そして、私たちを下から支えてくださっているんです。
  教会は、祈りの場所、安らぎの場所、共に泣き、共に喜ぶ場所。あなたの苦しみや悲しみを受けとめる場所。今日、このことを改めて確認すると共に、苦しい時、辛い時こそ「そばにいるよ」と呼び掛けておられる神様、イエス様の御声を聞き洩らすことのないようにしたいと願います。イエス様と共に、神様と共に、嵐も起こって来る人生の船旅を力強く進んで参りましょう。

            お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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