2022年 2月 20日(日) 降誕節 第 9主日 礼拝説教
 

「解放の道は知ることから」
マルコによる福音書 2章 1〜12節 
北村 智史

 2月23日の教区社会部の集会が近づいてきました。ひと月ほど前にもアナウンスさせていただきましたが、今年は「世に遣わされた者として」というテーマで集会を開催いたします。私を含めた4人のキリスト者から、この世に遣わされた者としてそれぞれの現場の声を聞くという内容です。
  私は部落差別問題に関わってきたこれまでの経験から被差別の現場のお話をさせていただきますが、その他にもアジアの和解の問題に取り組んでこられた明治学院社会科教諭の佐藤飛文先生はその教育現場でのお話を、また沖縄に深くかかわって来られた西国分寺教会牧師の北原葉子先生はその沖縄の現場のお話を、そして入管問題に深くかかわって来られた原町田教会牧師の宮島牧人先生はその入管の現場のお話をしてくださいます。
  4人のお話に共通するのは、抑圧され、苦しんでいる人々がいるということです。その現実に対して、私たちはキリスト者としてどのように生きるのか、問われていると思います。そして、今日の聖書個所のお話も、病人の癒しという奇跡物語でありながら、私たちにそのようなことを問いかけるお話となっています。
  今日選ばせていただきました聖書個所は、マルコによる福音書2:1〜12です。ここには、「中風の人」が出てきます。この「中風の人」と訳されている言葉は、新約聖書が書かれたギリシア語の原語では「パラリュティコス」という言葉でして、これは「不随の者」という意味の言葉です。日本語の「中風」という言葉は現在、脳卒中の後遺症である半身不随や手足の痺れ、麻痺などを指すものとして用いられています。しかし、この「パラリュティコス」というギリシア語で表されている人が果たして何の病気を抱えていたのか、その病名を厳密に確定することはできません。しかし、いずれにせよ、この患者は歩けない状態にありました。
  それだけではありません。イエス様が生きておられた当時のユダヤ教では、病気や障がいは罪の結果生じると考えられていました。ですから、この患者は病気に苦しむだけでなく、社会的にも差別され、疎外されて苦しんでいたのです。
 イエス様御自身は、ヨハネによる福音書9:2で、目の見えない人を見かけた弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問いかけたのに対し、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と答えておられることからも分かる通り、そのような考え方を否定しておられましたが、それでもあえて今日の聖書個所で、中風の人に罪の赦しを宣言なさいました。それは、「中風の人」を差別から解き放ち、社会に復帰させるための大切な宣言だったのです。今日の聖書個所の中で、私たちはどうしても病気を癒されたその奇跡の方に意識が行ってしまいがちですが、イエス様があえてこのように罪の赦しを宣言し、差別に苦しんでいた人の社会的な回復を行われたことを見逃してはならないと思います。
  強調すべきは、差別からの解放を成し遂げるイエス様のこの宣言が、差別や苦しみの中にある人に寄り添い、行動した「四人の男」の信仰に応えて為されたことでしょう。私たち一人ひとり、無関心に陥ることなく苦しむ者に寄り添うことが求められているのであり、私たちが神様の力を信じて行動する時、神様は必ずそれに応えて解放の業を成し遂げてくださるのです。
  ルカによる福音書4:16以下のお話が頭の中に浮かんでまいります。かつてイエス様はナザレの会堂で聖書を朗読され、このように言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。この時、イエス様がお読みになった聖書の御言葉がイザヤ書の次の言葉です。「主の霊がわたしの上におられる。/貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。/主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」
  ここから窺えるように、イエス様は抑圧され、苦しんでいる人々を解き放つため、そうして貧しい人に福音を告げ知らせるために神様に遣わされてこの世へとやって来られたのでした。私たちはイエス様に従う者として、その解放の御業、宣教の御業に積極的に参加していくことが求められています。イエス様と共にこの世の苦しむ人々に寄り添い、そうした人々を苦しみから解き放っていく、そうして自分も無関心や偏見、差別心など、自分を縛っていた色々なものから解き放たれていく、そうした解放の道を歩んで行くことが求められているのです。その第一歩が、私は知るということに他ならないと思います。
  ここで私自身のお話をさせていただければ、私は10代の頃から心の病気を患い、高校を卒業してから3年間、精神科に通いながら自宅療養を余儀なくされました。その中でいつも感じていたのは、精神障がい者に対する差別や偏見です。
 私が通っていた病院は、幸いにもたまたま実家の近くにあった精神科医療で有名な病院でして、しかしそこに対する地元の人々の差別や偏見はひどいものでした。「その中にいる人と目を合わせてはいけない」とか、「そこを通る時は注意しなさい」とか言ったことが囁かれていて、私がそこに通っていると知った親族は、「あんなところに通わせるのはやめろ」と私の母親に注意しに来たものでした。私が元気になって大学に入学した時、オーケストラサークルの後輩が一度、「先輩はどこの出身ですか?」と聞いてきたことがありまして、「どこそこだ」と答えたら、「精神病院のある所やな」と非常に差別的なニュアンスで呟かれたことがありまして、そこに通院していた者としてドキッとしたことがあったのですが、こうしたことを考えますと、どうやら私の通っていた病院は地元の人々だけでなく、市外の人々にもひどい差別や偏見を持って知られていたようです。
  そして、忘れもしない2001年に池田小学校の事件が起きました。刃物を持った犯人が小学校に侵入し、児童8人が殺害され、教員を含む15人が重軽傷を負った日本の犯罪史上稀にみる悲惨な事件です。この時、犯人が精神科に通院歴があり,統合失調症と診断されていたことが大きく取り上げられ、大々的に報道されました。まるで精神障がいが事件を引き起こす原因であったかのように報道され,多くの人が「精神障がい者は危険である」、「何をするかわからない」といった偏見を増大させたのです。そして、私たち精神障がい者はまるで犯罪者予備軍のような目で見られ、世間からそのように扱われました。
  「住みにくくなった」、「生きづらくなった」。病院の待合室で、池田小学校のニュースをテレビで見ながら、患者同士がそのように話し合っていたのをよく覚えています。「差別や偏見なんてまっぴらだ。自分をちゃんと見てよ。」つくづくそう思わされた体験でした。
  しかし、私がその後元気になって大学に入学し、大学院一年生になった時、日本基督教団部落解放センターが主催する「部落解放青年ゼミナール」というものに誘われて初めて参加して、私は大きなショックを受けました。この時の私の部落差別問題に対する理解は、それはもう偏見と無関心に溢れたものだった。そのことを思い知らされたのです。
 私自身、小学校の頃、同和教育で学んだので、「部落差別」というものがどのようなものなのかということは、何となく言葉の上では理解していたつもりでした。しかし、それは私の地元大阪だけの、それも過ぎ去った過去の出来事だろうと、ずっと考え続けていたのです。「なんで今さら、部落差別なのだろう?」これが初めて青年ゼミに誘われた時の、私の素直な気持ちでした。
 しかし、青年ゼミに参加して、部落差別が私の地元大阪だけでなく、日本全国様々な地域で行われていること、そして今もなお差別が続けられていることを知り、またその生々しい差別の話や現場を見聞きして、私は大きなショックを受けました。聖書には「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉が出てきます。私自身この言葉が大好きでしたし、分かりやすくまた文句のつけようのない言葉として十分に理解して受け入れているつもりでした。しかし、目の前の現実を突きつけられて、私は、自分がこんなにも隣人に対して無知であり、無関心であり、そのために自分の隣人を孤独と抑圧の中に追いやってしまっていたことを痛感させられたのです。
  差別を受けて、「差別なんてまっぴら」、「偏見なんてまっぴら」、そう思っていたのに、そんな自分が無知のために、無関心のために、部落差別に苦しむ人々を苦しめていた、そういう意味で差別に加担していた。人間は単純に差別する側、される側に分けることはできない。本当にいつ差別される側になるかもわからないし、差別する側になるかもわからない。「知らないというのは本当に罪だな」、「無関心というのは本当に罪だな」。そう思わされました。
  私自身がどういう人か、強迫神経症というのがどのような病気か、また精神障がい者の犯罪率は極めて低い、そうした事実を知ってくれてさえいれば、私自身、差別や偏見に遭うことはなかっただろう。あの時、病院にいた人も同じです。同じように、部落差別問題に対してきちんと関心を払い、きちんとした知識を持ってさえいれば、差別に加担せずに済んだのではないか。部落差別問題に限らず、どのような差別問題に置いても同じです。知らないから、関心を払わないから、差別や偏見に加担してしまう。そして、己の隣人を苦しめてしまうのです。
  「本当に差別なんてまっぴら。差別するのも、されるのも嫌。この世界から差別なんてなくなって欲しい。差別に苦しむ者を解き放つ神様に御業に関わっていきたいし、自分も差別に加担する道から解き放たれていきたい。」そう思うなら、ぜひ知ることから始めてみませんか。私たちが関心を払いさえすれば、2/23の集会のように、差別問題、人権問題を知る機会はあちらこちらにあるはずです。知ることは、イエス様と共に解放の道を歩んで行く第一歩。まずは知ることから始めて、皆で一緒にこの世界から差別をなくしていきましょう。そしてこの世界を「神の国」に近づけていきたいと願います。
                 祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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