2022年 2月 27日(日) 降誕節 第 10主日 礼拝説教
 

「信じるって何だろう?」
マルコによる福音書 6章 30〜44節 
北村 智史

 皆さんは聖書を初めて読んだ時、そこに書かれてあることをすべてすんなりと受け入れることができたでしょうか。そう尋ねるのには理由がありまして、聖書には「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイによる福音書22:39等)とか、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書7:12)とかいったように、「ああ、なるほどな。良い言葉だな」と思って割とすんなり受け入れられる御言葉が出てくる一方で、例えばマタイによる福音書の冒頭に出てくる「イエス・キリストの系図」のように、あるいはレビ記、民数記などに出てくる細々とした規定や数字のように、「ああ、読みづらいな。こんなの読んでいて何の意味があるんだろう?」と思わされるような個所も出て参ります。また、死人が蘇ったり、病気が癒されたりする、にわかには信じがたいような奇跡物語も出てきます。
  ですから、きっと皆さん、聖書を初めて読まれた時は、「ああ、良い言葉が出てくるな」と親しみを持つこともあったでしょうが、それと共に「これはどういうことだろう?どういう風に受け止めたら良いのだろう?」と戸惑いを持つこともあったと思うのです。そういう風に私たちを戸惑わせる個所を皆はどう読んでいるのか、そしてどういう風に読んだらよいのか、そんなことを考えていたら、「信じるって何だろう?」という疑問に行き着きました。今日は、そんなお話をしていこうと考えています。
  今日取り上げさせていただきました聖書個所はマルコによる福音書6:30〜44です。イエス様が2匹の魚と5つのパンで5千人以上もの人々を満腹させたというこの奇跡物語も、聖書を初めて読む者にとっては多くの方が戸惑いを感じる個所ではないでしょうか。はたしてそんなことが実際に起こり得るのか。この聖書の記述は、歴史的な事実を記したものなのか。そんな疑問が頭の中をよぎってまいります。
  はたして皆さんは、この個所を前にどのような思いを持っておられるでしょうか。イエス様は神の子であり、神様と等しい存在であるから、そういう超自然的な力を持っていても不思議ではない。この奇跡は実際に起こったことなのだ。そう信じておられる方もおられると思います。また、聖書学者の中には、この5千人の供食の奇跡について、ヨハネによる福音書の並行記事では、大勢の群衆に食べさせようとするイエス様に対し、少年が2匹の魚と5つのパンを持っていることを名乗り出てくれたような記述になっていまして、それに心を動かされた群衆が皆持っていた食べ物を提供してくれて、結果、皆が満腹することができたのだという合理的な解釈をしている人もいます。
  問題は、よく両者の間でお互いの裁き合いが起こってしまうことでしょう。実際、私はこれまで、この奇跡は実際に起こったことなのだ、そう信じておられる方が、自分たちの信仰こそ「強い信仰」である、そして合理的な解釈をする人々の信仰を「弱い信仰」として裁くのを見てきましたし、反対に合理的な解釈をする人々が、この奇跡は実際に起こったことなのだと信じる人々を「非科学的」、「前時代的」といった言葉で非難するのを見てきました。
  「どちらが正しいのだろう?」「あれか、これか」。そのように考えると、裁き合いは避けられません。はたして信仰というものは、「これはこうだろう」と信じたら、もうそれ以外はあり得ない、すべて異端というようなものなのでしょうか。
 私はそのように考えてはいません。無論、今は短縮した形で礼拝を行っていますので割愛していますが、通常の礼拝では毎回使徒信条を皆で唱えていたように、信条というものがありまして、キリスト者であるならば最低限一致しておかなければならない事柄というのはあります。そうでないと、どこかのキリスト教系カルトのように、イエス・キリストというのは出てくるけれども、それよりも教祖の方が上で絶対的な権力を持っているというような無茶苦茶な信仰まで許すことになってしまうからです。そういうのは論外ですが、しかし私は使徒信条のような信条に沿った信仰であるなら、その幅は認められるべきだと思うのです。
  実際、私は、今日の聖書個所を前にして「これは本当にあった奇跡なのだ」と信じる信仰も、「いや、これはこういうことなのだ」と合理的に解釈する信仰も、どちらもあってしかるべきだと思っています。どちらが正しくて、どちらが間違っているというものでもないし、どちらの信仰が優れていて、どちらの信仰が劣っているというものでもないでしょう。
  では、他でもない私は今日の聖書個所をどのように理解しているかと言えば、こういう超自然的な出来事が本当にあったのかもしれないし、合理的に解釈できることだったのかもしれない、そこは曖昧です。と言いますか、この奇跡が実際に起こった出来事なのかどうかということに、私自身あまり拘ってはいないのです。それよりもむしろ、私は今日の聖書個所に込められたメッセージの方を大事にしています。たとえこの奇跡が本当にあった出来事にせよ、そうでないにせよ、そんなことに関わりなく、今日の聖書個所は私に大事なメッセージをくれている。それを大切にしたい。それが私の信仰です。
  今日の聖書個所から私が感じるメッセージ、それは、たとえ自分には持っている賜物わずかで不可能に思えても、苦しむ人々に寄り添っていきなさい。その時、神様はその賜物を何倍にも増し加えて豊かに用いてくださるということです。それ以外にも、今日の聖書個所からくみ取れるメッセージは、人によって様々にあることでしょう。こうしたメッセージに、私は生かされているのです。
  思うに、「信じる」ということは、聖書に書かれてあることをすべてそのまま歴史的な事実であると認めることとは限りません。むしろ、私は「信じる」というのは、聖書でメシアとされているイエス様こそ自分の主であると認めること、そして聖書に描かれているイエス様の教えや生涯を初め、それら聖書の中身を通して伝わってくるメッセージが自分の人生を決定づけるものとなることだと思うのです。
  奇跡物語をそのまま事実として受け止めるか否か、そこで裁き合うのではなくて、そこは信仰の幅としてお互い認めつつ、その奥にあるメッセージにしっかりと目を向けていきましょう。そして聖書に、イエス・キリストに豊かに生かされていきたいと願います。

           祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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