2022年 3月 13日(日) 受難節 第 2主日 礼拝説教
 

「言葉の重み」
エフェソの信徒への手紙 4章 29 
北村 智史

 先週、3月11日は東日本大震災の記念日でした。毎年この日が近づくと、テレビや新聞では特集が組まれ、あの日のニュースが繰り返し報道されます。亡くなられた方々の魂の平安を切にお祈りすると共に、残されて地上を歩む方々の慰めを切にお祈りいたします。今年であの忌まわしい震災から11年が経過したわけですが、心に大きな傷を抱えながら、これまで懸命に復興に向けて歩んでこられた方々のその努力を思います。あの日のことを決して忘れずに、被災地の方々の復興の歩みにこれからも教会として寄り添っていきたいと願います。
  さて、3月2日の「灰の水曜日」から、私たちはレントに入りました。イエス・キリストの御受難を想い起こし、悔い改めの内に過ごすシーズンが始まっています。4月17日のイースターまでの期間、しっかりと己の罪を見つめ、反省の内にこの時期を過ごしていきたいと願います。そして、来るイースターの日には、清い心で、皆で一緒にイエス様のご復活をお祝いしましょう。
  さて、そんな今日は聖書の中からエフェソの信徒への手紙4:29を取り上げさせていただきました。ここには、こんな御言葉が記されています。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」。ここから窺えるのは、言葉には「語るべき言葉」と「そうでない言葉」、「良い言葉」と「悪い言葉」の二つがあるということです。これは、皆さんも経験を通してよく理解できる事実ではないでしょうか。
  実際、私自身振り返ってみましても、これまで多くの言葉をかけられて、そのたびに励まされたり、傷つけられたりしてきたことを思い出します。また、言葉をかけられるだけでなく、私自身これまでたくさんの言葉を語って、そのたびに人を励ましたり、傷つけたりしてきたことでしょう。言葉には両義性があって、人を生かしもすれば、殺しもするのです。
  さて、エフェソの信徒への手紙4:17〜24では、キリスト者として罪に溢れた古い生き方を捨てて、新しい生き方をするようにという教えが為されています。聖書の言葉を用いて語るならば、「古い人を脱ぎ捨て」て、「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るように」という勧めです。今日の聖書個所が含まれている4:25以下の個所では、その「新しい人を身に着け」たキリスト者の新しい生き方が具体的に語られています。キリスト者のマナーが示されていると言っても良いでしょう。
  ここではまとまりなく教えが羅列されていると感じる方もおられるかもしれませんが、そうではありません。実はここには一貫している主題があります。それは、「隣人」です。キリストを信じて生きるということは己の隣人を発見することであり、その隣人を愛することに他なりません。実に、キリスト者は神様と隣人との愛の関係の中を生きる存在です。ヨハネの手紙一4:20には、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です」という御言葉が出て参りますが、神様を愛するキリスト者は、隣人を愛し、自分が神様から受けた愛を隣人に返していかなければなりません。エフェソの信徒への手紙4:25以下に記されている教えはすべて、そのためのマナーなのです。
  今日取り上げた聖書個所、4:29はその中でも、日々言葉を生業にしている牧師として、私が最も身につまされる個所であり、皆さんとぜひ共有したいと思って、本日、聖書個所に選ばせていただきました。
  言葉に両義性があるということは既に申し上げた通りです。キリスト者には守らなければならない言葉のマナーがある。キリスト者であるならば、人を傷つけたりするような「悪い言葉」は一切口にしてはならない。「ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて」語らなければならないと言います。
  ここで「造り上げる」と訳されている言葉は、聖書が書かれたギリシア語の原語では「オイコドメオー」という言葉でして、建築家が家を建てる時の言葉です。コリントの信徒への手紙一14:3〜4でも、この言葉はパウロによって使われています。「しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」。ここでの「預言」とは説教のことであり、神の言葉を伝える言葉です。それは人を励まし、慰め、造り上げるだけでなく、人と人との間に主にある絆を生み出し、「教会を造り上げる」とパウロは言います。しかし、私は説教に限らず、キリスト者の語る言葉はすべてそのようなものであるべきだと思います。神の言葉を伝え、人を励まし、慰めて、造り上げる。そして教会をも造り上げる。今日の聖書個所で「聞く人に恵みが与えられる」言葉とあるのも、そういう言葉でしょう。
  では、各々振り返ってみて、私たちは「悪い言葉」を避けて、そういう言葉ばかりを選んで語ることができているでしょうか。このことを思う時、私たちはむしろそれとは正反対の事実ばかり思い浮かぶのではないでしょうか。何もない時は「悪い言葉」を避け、言葉を選んで話すことができているかもしれません。しかし、たとえば感情的になった時はどうでしょう。相手をやっつけてやろうどころか、相手を傷つけてやろう、そういう悪意たっぷりにひどい言葉を投げつけたりはしていないでしょうか。
  牧師の中にもそういう人はいて、最近私は教会外の仕事で傷つけられました。自分の意のままにならないと激しく感情的になって、一方的にこちらをひどくなじるメールをいただいたものですから強く反論したのですが、その返事に非常に陰湿でねちっこい、悪意たっぷりのメールが返ってきて、非常にしんどい思いをいたしました。聞けばその人はそういうことを繰り返して多くの人を傷つけているとのこと、御言葉に仕える牧師が人を生かそうとするのではなく、人を殺そうとするこういう言葉を人に対して投げつけるのかとがっかりしました。悔い改めを祈ると共に、自分もそういうことのないように気をつけたいと思います。
  よくキリスト教は「言葉を抱く宗教」だと言われます。聖書という神様の御言葉を与えられ、これを通して聞こえてくる神様のメッセージに日々生かされているからでしょう。神様の御言葉に生かされている私たちは、自らも言葉によって神様の愛を伝えて、己の隣人を生かしていきたいものです。
 言葉は人を生かしもすれば、殺しもする。その重みをまずは十分に理解して、どのような時にも恵みの言葉を語っていきましょう。そうして、主にある愛の輪をどこまでも広げていきたいと願います。
              
祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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