2022年 3月 27日(日) 受難節 第 4主日 礼拝説教
 

「悪に悪で対抗する誤り」
マタイによる福音書12章22〜32節 
北村 智史

  早いもので、今日が今年度最後の主日となりました。2020年度に引き続き、新型コロナの対策に追われる、そんな年度だったかと思います。昨年は4月25日〜9月26日まで会堂での礼拝を休止し、10月〜11月は教会員を、第1主日と第3主日に会堂での礼拝に出席するグループと、第2主日と第4主日に会堂での礼拝に出席するグループの二つに分けて礼拝の人数制限を行いました。コロナの状況が変わるたびにその都度役員会で協議し、対応を考えた一年間でした。大変な中でしたが、それでも役員の方々を初め教会員お一人お一人の祈りとご奉仕に支えられて礼拝の灯を守り通すことができたのは、大きな恵みだったと思います。今年度一年間の皆様のご奉仕に改めて感謝申し上げると共に、この礼拝の一時、2021年度も私たち教会の宣教の業を導き、守ってくださった神様に改めて感謝の祈りをお捧げしたいと願っています。
  さて、そんな今日は、聖書の中からマタイによる福音書12:22〜32を取り上げさせていただきました。新共同訳聖書では、「ベルゼブル論争」と小見出しが打たれているお話です。ここには、2種類の人々が出て参ります。一つは救いを求めてイエス様の周りに集まった人々であり、もう一つはイエス様を批判するファリサイ派の人々です。
ルカによる福音書6:20で、イエス様は「貧しい人々は幸いである」と仰られましたが、イエス様のその御言葉通り、苦難の中にあった前者の人々はイエス様の救いの奇跡を経験し、幸いに与り、「この人はダビデの子、すなわちメシアではないだろうか」という認識に至りました。しかし、自分自身で満ち足りていた、そして「罪人」とレッテルを貼られた人々から自分たちを切り離していた、すなわち苦難の中にある人々の現場に足場を置かない後者の人々、ファリサイ派の人々はただただイエス様を批判するだけで、イエス様のことを「神様を冒涜するペテン師」ぐらいにしか思っていなかったのです。
  彼らは言います。「このイエスという奴は、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と。こうした批判は、真剣にそう考えたというよりも、イエス様に悪い評判を立てるために揶揄しただけの言いがかりのように聞こえてきます。彼らにこの世の悪と闘おうとする、そして苦しむ者を救おうとする真剣さは感じられません。そして、私は彼らのこの発想がものすごく気になりました。
  なぜ彼らはベルゼブルなどというこんな非難を持ち出してきたのでしょうか。悪霊など、もっと強い悪を持ってくれば片付くのだろうという発想が頭の中にあったからだと思うのです。親分の権威を笠に着て下っ端の連中を退治するという発想、悪にはより強い悪で対処すればよい、たとえば暴力にはより強い暴力で、そんな発想が彼らには染みついていたのではなかったでしょうか。
  残念ながら、こうした発想は今の私たちにもこびりついているように私には思えます。悪にはより強い悪で。暴力にはより強い暴力で。私たちが生きているこの世界には、そうした価値観が至る所に横たわってはいないでしょうか。
  マルコムXという人のことを思い出します。アメリカの公民権運動の時に活動し、キング牧師と並んで人気を博した人ですが、キング牧師が非暴力・不服従の黒人解放運動を展開したのに対し、このマルコムXという人は過激かつ攻撃的な解放運動を展開しました。それはまさに差別という悪に対して暴力で対抗するというものだったわけですが、しかし、キング牧師はこうした種類の解放運動を念頭に置いてのことでしょう、「汝の敵を愛せよ」という説教の中でこんなことを語っています。
  「憎しみに対して憎しみをもって報いることは、憎しみを増すのであり、すでに星のない夜になお深い暗黒を加える……。暗黒は暗黒を駆逐することはできず、ただ光だけができるのだ。憎しみは憎しみを駆逐することはできないのであって、ただ愛だけができるのだ。憎しみは憎しみを増し、暴力は暴力を増し、かたくなさは、破壊の一途をたどりつつ、かたくなさを増していくのである。したがって、イエスは『汝の敵を愛せよ』といわれる時、究極的に逃れることのできない深遠な訓戒をのべておられるのである。」「われわれは、この国から人種差別という悪夢を払いのけるため、自分たちの全精力を傾け続けねばならない。しかしわれわれは、その過程において、愛するというわれわれの権利と義務を放棄してはならない。われわれは人種差別を嫌悪しつつ、一方では人種差別主義者を愛すべきである。これこそが愛されるべき社会を創造する唯一の道なのである。」
  こうした言葉に言い表されているように、キング牧師は差別という悪に対して憎しみ、暴力で対抗するということに反対しました。「愛は敵を友に変えることのできる唯一の力」であり、人は愛によってしか変わらない。愛によって差別主義者を造り替え、敵を友としていく道こそが、白人も黒人も共に「兄弟の間柄として同じテーブルにつく」という彼の夢を実現させる唯一の方法であると信じたのです。ローマの信徒への手紙12:21の御言葉を思い浮かべます。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。悪に悪で対抗するのは誤りであり、私たちは善で、また愛で悪を滅していかなければならない。
  こうした観点から今の世界情勢を見つめることは重要です。先週もお話ししましたが、今ロシアによるウクライナへの侵攻を受け、日本でも「核共有」の議論が巻き起こっています。それだけではありません。「本当に憲法9条で国を守れるのか」という9条懐疑論まで沸き起こっている始末です。コロナ後の世界、それは疫病という共通の敵と闘って団結するどころか、ますます分断を深め、お互いの不信のもと、より軍事力増大に安全保障を依り頼む世界となりそうです。
  戦争には戦争。軍事力にはより強い軍事力。「目には目を。歯には歯を」。いつまで私たちはこうした価値観、発想に囚われているのでしょうか。今日の聖書個所の中でイエス様が聖霊の力で悪の力に対抗したように、私たちもまた聖霊を豊かに受け、神様のお導きのもと、愛の力でこの世の悪に対抗していかなければなりません。願わくはこのレントの期間、悪に悪を重ねて転落していく私たちの罪をしっかりと悔い改めることができますように。悪の上に愛を積み重ねて、この世界を皆で一緒に変えていきたい、そして神様の平和、神様の勝利に与っていきたいと願います。

            祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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