2022年 4月 10日(日) 受難節 第 6主日 棕梠の主日礼拝説教
 

「取り換え不可能な命」
マルコによる福音書 11章 1〜11節 
北村 智史

 イースターをいよいよ来週に控え、私たちは今日、イエス様のエルサレム入城を記念する棕梠の主日を迎えています。今からおよそ2000年前の今日、イエス様はエルサレムに入り、十字架、そして復活へと続いていく生涯最後の一週間を過ごされました。私たちはこれからイエス様の歩まれたこの一週間を辿りながら、その受難に思いを馳せていく「受難週」を過ごしていきます。この「受難週」はレントのクライマックスとも言うべき大切な期間で、特に金曜日はイエス様の十字架の出来事を記念する「受難日」の夕礼拝を執り行います。ご都合のつく方はぜひとも足を運んでくださって、イエス様の十字架を偲ぶ一時を御一緒していただければと願っています。今日より始まっていきますこのレントの最後の一週間、一日一日を大切にしながら、悔い改めのうちに良きイースターの備えの時を過ごして参りましょう。
  さて、今日は棕梠の主日ということで、イエス様のエルサレム入城の場面を取り上げさせていただきました。マルコによる福音書11:1〜11です。ここに記されているように、イエス様はろばに乗ってエルサレムへと入られました。この時、大勢の群衆が自分の服を道に敷き、他の人々は木の枝を道に敷いてイエス様を大歓迎したと言います。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」人々はそう叫んでイエス様を褒め称えました。
  では、なぜ人々はこんな風にイエス様を褒め称えて大歓迎したのでしょうか。実は、人々はイエス様のことを、「これからこの人はかつてのイスラエル王国のような王国を打ち建てて王様になる。ダビデのような立派な王様に。そして、長く続いてきた外国の支配を打ち払って皆に良い思いをさせてくださる」、そう信じていたのです。でも、イエス様はそんなメシア(救世主)では決してありませんでした。実は、イエス様は偉い王様になるどころか、むしろその逆、犯罪者として十字架につけられてしまう、そうして殺されてしまうことを通して、ユダヤ人だけでなく異邦人も含めたすべての人々の罪の贖いを成し遂げる、そうして皆に永遠の命を与える、そんなメシアだったのです。
 ですから、この後、だんだんと皆の期待と実際のイエス様の姿がかけ離れていくことになります。イエス様はエルサレムに入られてから御受難を受けていかれるのですが、その姿は皆が期待していたメシアの姿とは程遠いものでした。結果、イエス様が十字架につけられた時、人々は「よくも私たちを騙したな。お前は私たちが期待するようなメシアではなかったではないか」と、激しく罵声を浴びせてイエス様を罵りました。それは、今日の聖書箇所での大歓迎が信じられないくらいの手の平返しです。
  今日の聖書個所で、イエス様はきっと人々の大歓迎を受けながら、これから待ち受けている御自分の過酷な運命を見つめておられたことでしょう。人々の大歓迎に浮かれるような気持ちはイエス様にはなかったと思います。むしろ反対に、何とかして御自分に与えられた使命を全うしなければという思いが強かったのではないでしょうか。
  これほどまでにイエス様を御自分の使命に駆り立たせたもの、それはひとえに私たちへの愛だったのだと思います。ヨハネによる福音書15:13で、イエス様は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と仰っておられますが、イエス様は本当に私たちを友として、家族として愛してくださっていた、その私たちの救いのためなら御自分の命を犠牲にしても惜しくない、本当にそう思われていたのだ、そして事実そう行動されたのだということが良く分かります。イエス様にとって、私たち一人ひとりが「価高く、貴い」存在だったのであり、イエス様は御受難の後、復活して天へと昇って行かれますが、そこから今も私たちを変わることなく温かく愛し、見守ってくれていることと私は信じています。
  「受難週」の初めの日、イエス様にこれほど愛されている私たち一人ひとりの命の尊さを覚えましょう。そして、その命を戦争によって次々と奪っていく私たち人間の罪を深く悔い改めたいと思います。
  今回のロシアとウクライナの戦争では、いったいどれだけの人が傷つき、亡くなったことでしょうか。テレビや新聞などのメディアでは、連日のようにその被害が報告されていますが、その数字の多さに、私たちはともすればリアリティを感じられなくなってしまいます。しかし、たとえば何百人、何千人の人が亡くなったということは、そのそれぞれに神様のもとで懸命に人生を歩んでこられた道のりがあったということなのです。
  『こころの友』2022年4月号に載っていたある記事を思い出します。そこには「人生、何が起こるかわかりませんが」と題して、ある牧師のこれまでの半生が綴られていました。高校時代、人生が上手くいかず、望みを失っていたこと、そんなある日、マザー・テレサのことを知って神父になろうと決意し、近くの教会を訪ねたこと、しかし、それはプロテスタントの教会であり、そこで洗礼を受けたものの、心は満たされず、2年後に教会を離れたこと、救いのない生活の中で遠藤周作の『沈黙』を読み、「自分もゆるされている」と知って再び教会に戻ったこと、父親のアルコール依存症によって家庭崩壊を経験したこと、父親の死をきっかけにニュージーランドに一年間移住したこと、帰国後、逆カルチャーショックで自分が何者であるか分からなくなり、そのような中、教会で責任を持つ信徒に選ばれたこと、その務めをしつつ聖書を読む中で牧師への道が備えられたこと、牧師として9年間働いた後で、精神病で一年間入院したこと、苦しみ、悩んで牧師を辞めたこと、「これで人生が終わった」と思ったけれども、やがて牧師に復職することができたこと等々が切々と語られていました。
  「人生、何が起こるかわかりませんが、苦しみに耐える力を、喜びを神さまがあたえてくださいます。人生の道はなおも曲がりくねっていくでしょうが、神さまが見守り、恵みを与えてくださると信じられるようになりました」。この牧師はそう語っています。神様のもとで精一杯、一生懸命生きていく人生、命が記されていました。
  この人だけが特別なのでしょうか。私はそうは思いません。皆が皆、神様に愛されて、支えられて、人生を懸命に歩んでいるのです。何百人、何千人が亡くなったということは、こうした神様に愛されたかけがえのない命、取り換えの効かない命がそれだけ失われたということに他なりません。そんなことを、私たちは絶対に許してはならないのです。
  今日から受難週の一週間が始まっていきますが、その間、イエス様がどれほどの思いで私たちを救い出してくださったか、贖い出してくださったかを改めて心に留めて、その大切な命を粗末に扱う人間の罪をしっかりと悔い改めていきましょう。そして、大勢の人が紙屑のように殺されていく戦争の現実をこの世界から消し去っていきたいと願います。
              祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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