2022年 4月 15日(金) 受難日・夕礼拝説教
 

「終わりが始まり」
マルコによる福音書 15章 33〜41節 
北村 智史

 今日は受難日の夕礼拝を神様にお捧げしています。受難日というのは、イエス様の御受難、すなわち十字架の出来事を記念する日です。今からおよそ2000年前の今日、イエス様は十字架につけられて殺されてしまいました。先程お読みいただきましたマルコによる福音書15:33〜41には、その時の様子が描かれています。今日はこれらを詳しく見ながら、今からおよそ2000年前にどのようなことが起こったのか、そして、それは私たちにとってどのような意味を持つのか、詳しく説明していきたいと思います。
  マルコによる福音書11:25を見れば、イエス様は午前9時に十字架につけられたと記されています。そして、息が絶えたのは午後3時のことでした。実に、イエス様は6時間も十字架の上で苦しみ続けられたのです。
 ここで、イエス様がお受けになられたこの十字架刑について、少し詳しく説明しておきましょう。十字架刑というものは、当時ローマ帝国が恐怖政治の一環として行っていた非常に残酷な処刑方法です。この刑は、ローマの平和を脅かす反逆者などに適用された処刑方法に他なりません。イエス様は、表向きはローマ帝国に反逆を企てた政治犯として、十字架の上で処刑されたのです。それは、イエス様の運動が大きくなり、ローマ帝国から目をつけられて軍隊を派遣され、自分たちユダヤ人がすべて滅ぼされてしまうことを恐れた、また、彼が自分を神の子、メシアだと自称して神様を冒涜していると考えたユダヤ教指導者たちの企みによるものでした。
 恐怖政治の一環として、十字架刑は公開処刑で行われます。ローマ帝国の恐怖を公に植え付けるという目的から、当時、十字架の縦木は、城壁に近い高台や目立つ場所に常に設置されていました。死刑囚は縦木に付けられる罪状書きと一緒に、十字架の横木を担いで刑場まで歩かされました。そして、十字架につけられるのですが、死刑囚は両手首と両足首を釘で打ちつけられ、体を支えられなくなることで呼吸困難に陥って死に至りました。そのため、長引く場合は、48時間程度も苦しみ続けて死んだと言われています。
  このような底知れぬ苦しみと屈辱が伴う残酷な刑を、イエス様は受けられました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)という彼の叫び声に象徴されているように、それはまさに絶望的な出来事だったのです。イエス様を信じていた者にとっては、イエス様がこのように悲惨な形で殺されてしまうことで、何もかもが終わりに思えたことでしょう。
  しかし、この出来事はこれで終わりでは決してありませんでした。私たちは次の日曜日にイースターを迎えますが、イエス様は十字架の出来事の後、復活されるのです。そして、私たちの救いを成し遂げられました。イエス様の十字架の出来事、それは実は私たちの罪の贖いを成し遂げるための出来事だったのであり、イエス様は復活の出来事を通して私たちの死を滅ぼし、私たちに永遠の命をお与えになったのです。これにより、私たちは終わりの日には皆神様のもとでこれまでの苦労の涙を拭われ、安らかに憩います。そして、愛する者と共に神様を賛美、礼拝しながら永遠に生きるのです。
  こうしたイエス様の十字架の出来事と、その後に続く復活の出来事を思えば、どのような絶望の先にも神様が希望を備えていてくださっていることが分かります。「信仰者には、終わったと思ったところがいつも始まりです。そこから神さまの支え、力が始まるのです」。小島誠志牧師の言葉です。『こころの友』2022年3月号で、早稲田教会牧師の古賀博先生が「今月の決めゼリフ」というコーナーでこの言葉を取り上げて、ご両親との思い出を語っておられました。
  難病のために長く闘病していた母がひどく苦しみ、血を吐いて58歳という若さで亡くなられた。それは父にとって、すべてが終わりに思えた絶望的な出来事だった。しかし、母の葬儀の日の夜、義理の妹から母が父のことをずっと祈っていた事実を父が知らされ、心を打たれた。そして、葬儀が終わった後に「教会に通って洗礼を受けたい」と申し出た。次の日曜日から教会に通い始めた父はその年のクリスマスに受洗し、以後亡くなるまでの24年間、教会生活に喜びを見出し、笑顔で歩み通した。
  古賀先生はその思い出を振り返り、小島先生の先程の言葉を引用し、このように語っておられます。「深い嘆きを抱え、『終わった』との思いを噛みしめざるを得ない経験をします。そうした時にこそ神さまの力が働き、新しい何かが始まっていくのです。父の姿からも私はそのように信じています」。
  ここで聖書に話を戻せば、イエス様の十字架による死で全てが終わった、誰もがそう感じていた中、3日目にイエス様が復活し、新しく確かな希望が始まっていきました。キリスト教が始まっていったのです。「信仰者には、終わったと思ったところがいつも始まり。そこから神さまの支え、力が始まっていく」。受難日の今日、この事実をしっかりと心に刻みましょう。そうして、苦難もたくさんある私たちの人生を、皆で一緒に力強く歩み通していきたいと願います。

             祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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