2022年 4月 24日(日) 復活節・第2主日 礼拝説教
 

「十字架と復活」
ルカによる福音書 23章 32〜49節
  マタイによる福音書 28章 16〜20節
 
北村 智史

  先週は待ちに待ったイースターでした。その前の金曜日、15日は、イエス様の十字架の出来事を覚える受難日と呼ばれる日でした。ここしばらく、イエス様の十字架の出来事を覚え、復活の出来事をお祝いする行事が続いたわけですけれども、皆さん、イエス様の十字架と復活の出来事が良く分かったでしょうか。イエス様の十字架と復活は、キリスト教の中でも特に大切な出来事です。何回でも学んで理解しておきたいことですので、イースターの後の最初の日曜日である今日もこの二つの出来事を取り上げてお話をしたいと考えています。
  というわけで、今日は聖書の中からイエス様の十字架の場面と、復活に関係するお話を取り上げさせていただきました。ルカによる福音書23:32〜49とマタイによる福音書28:16〜20です。まずはイエス様の十字架の場面が描かれたルカによる福音書を見ていきましょう。
  ここに描かれていたように、イエス様は今からおよそ2000年前に、二人の犯罪人と一緒に十字架につけられました。十字架というのは、当時、ローマ帝国に反乱を企てた人に用いられていた非常に残酷な処刑方法です。イエス様は、表向きはローマ帝国に反乱を企てた人として、十字架につけられました。でも、イエス様にはそんなつもりはまったくなかったのです。イエス様は、「こいつは自分のことを神の子とかメシアとか言って神様を冒涜している。このままこいつの運動が大きくなっていったら、自分たちユダヤ人がローマ帝国に、『こいつら危険だな』と目を付けられて滅ぼされてしまうかもしれない。こいつを生かしておいてはまずい」、そんな風に考えたユダヤ教のお偉いさんたちの企みで、あらぬ罪を着せられて殺されてしまったんですね。
十字架につけられる人は両手首と両足首を釘で打ちつけられて、体を支えられなくなって息ができなくなり、死んでしまいます。長引く場合は、48時間程も苦しみ続けて死んだと言われています。イエス様もたくさんの人々から罵られ、馬鹿にされて笑われる中で、何時間も苦しんで亡くなられました。
  でも、この出来事はこれで終わりでは決してなかったのです。イエス様はこのように金曜日に十字架につけられて殺された後、日曜日の朝早くに復活されました。イエス様の十字架の出来事、それは実は御自分が神様の罰を受けることによって、すべての人々の罪を神様から赦してもらう出来事だったのです。私たちは神様が喜ばれるように生きていこうとしても、それとは反対のことばかりしてしまう、そんな罪を持った存在ですが、イエス様がこのように「神様、自分が罰を受けるからすべての人を赦してね」と十字架を担ってくださったから、私たちは罪を持ったそのままで神様に赦されるんですね。そして、死んでも神様のもとで永遠に安らかに生きるようにしてくださったのです。
  復活の出来事というのは、神様がイエス様の「すべての人を赦してね」というお願いを受け入れてくださった証拠に他なりません。私たちはイエス様が蘇られたことを通して、「ああ、私たちも、たとえ死んでも、終わりの日にこのように神様の御前に生き返るんだな。そして、愛する人々と共に神様のもとで、またイエス様と共に、永遠に安らかに生きて神様を礼拝するんだな」ということを知らされます。
  今日の聖書個所のもう一つの個所、マタイによる福音書28:16〜20で、お弟子さんたちは復活されたイエス様に会い、この喜びの知らせ、またお弟子さんの輪をどこまでも広めていくように言われました。この言いつけを果たすべく、私たちの教会が建てられているのです。私たちは自分が神様の愛にふさわしく生きることを通して、この喜びの知らせをどこまでも伝えていかなければなりません。
  では、私たちは本当に神様の愛にふさわしく日々を生きているでしょうか。このことに関連することですが、ある時、聖書研究会である方がこんな質問をなさいました。レントの期間、私たちの教会では消火礼拝というのを行っていまして、礼拝のたびに聖書が読まれ、消火の言葉というのが読まれて一本ずつろうそくの灯が消されていく、そうして私たちの罪やこの世の闇が深まっていくのを感じる、そんな礼拝を執り行っているわけですが、その消火の言葉に「私たちは十字架の贖いを否定し、自分たちの傲慢によって生きていこうとしたことを告白いたします」というものがあった、これはどういうことだろうと言うのです。私たちはイエス様の十字架の贖いや復活ということを普段から教会で聞いて知っているし、信じている。しかし、その私たちが礼拝の中で「十字架の贖いを否定した」と、そして、「自分たちの傲慢によって生きていこうとした」と告白するというのが、「いやあ、果たして自分はいつイエス様の十字架の贖いを否定しただろう」と思って、ピンとこないところがあるという、そんな趣旨の質問だったと思います。
  私は、これはとても良い質問だと思いました。そして、こう思ったのです。「信仰というのは単に頭で理解するというだけのことではないのだろうな」と。それは私たちの生き方や態度までを含んだものとは言えないでしょうか。いくら頭でイエス様の十字架の贖いや復活を理解していても、その神様の愛に対する応答が私たちの生き方や態度となって現れてこない限り、イエス様の十字架の贖いや復活を本当に受けとめている、そして信じているとは言えないのだろう。そう思います。
  つまり、こういうことです。ロシアのプーチン大統領はロシア正教会の信者ですが、では、はたして彼はクリスチャンとして、イエス様の十字架の贖いや復活をしっかりと心でもって受けとめていると言うことができるでしょうか。もちろん、プーチン大統領とロシア正教会の関係が、プーチン大統領は独裁政権の安定のために、自身の政権と人々との接着剤として教会を利用する、そして教会の方は旧ソ連時代の弾圧によって傷つけられた世俗的権威の復活のためにプーチン政権を利用するという風に、お互いを利用し合うずぶずぶの関係、特殊な関係であることは分かります。ですから、そもそもプーチン大統領が純粋に道を求めているクリスチャンと言えるかどうかは疑わしいのかもしれませんが、しかし、もし仮に彼がイエス・キリストの十字架による贖いと復活を頭の中で理解し、心で神様を信じていたとしても、あんな侵略戦争を引き起こし、あれだけの虐殺や悲劇を引き起こしている彼の行状を考えるならば、それは本当の信仰であるとは言えないでしょう。十字架の贖いと復活による救いを否定し、自らの傲慢によって生きている、そして神様を冒涜し続けていると言わざるを得ません。
  繰り返しますが、信仰とは単に頭で教義を理解するだけのことを言うのでは決してないのです。それは神様の愛に対する応答であり、私たちの生き方、態度です。ですから、頭でイエス・キリストの十字架の贖いや復活による救い、そうした教義を理解し、信じていても、それが生き方となって現れてこない、それどころかそれとは正反対の生き方をしてしまう、そうしてイエス・キリストの贖いや救いを否定してしまう、結果自身の信仰が信仰とは呼べなくなってしまうということが、私たちにはしばしばあるのです。
  レントを終え、イースターを迎えた後の復活節のこのシーズン、イエス・キリストの十字架と復活、その神様の愛を、それが自分の生き方となるところまでしっかりと受け止めましょう。新約聖書ヤコブの手紙2:26にはこのように記されています。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」。この御言葉の意味をしっかりと噛みしめて、自らの生き方でもって人々にキリスト教の信仰、またイエス・キリストの福音を光り輝かせていきたい、そうして、イエス・キリストによる贖いと救い、その喜びの輪を、またイエス・キリストに従う群れの輪をどこまでも広げていきたいと願います。

           祈りましょう。 ――以下、祈祷――

 
 
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