2022年 5月 1日(日) 復活節・第3主日 礼拝説教
 

「イエス様を愛する者だけが」
ヨハネによる福音書 20章 11〜18節 
北村 智史

  5月に入りました。ただ今、私たちは復活節第3主日の礼拝を神様にお捧げしています。4月17日のイースターでは、イエス様のご復活を告げ知らされた私たちも、主に在る新しい命に蘇ろうというお話をしたと思いますが、この復活節のシーズンというのは、まさに復活の主に出会った私たちのその生き方が問われるシーズンです。罪を持った古い自分に死に、主に在る新しい命に蘇った者としてふさわしい生活を心がけながら、イエス・キリストの十字架と復活、その喜びの福音を皆で一緒に告げ知らせていきたいと願います。
  さて、そんな今日は聖書の中から、ヨハネによる福音書20:11〜18を取り上げさせていただきました。。蘇ったイエス様が、マグダラのマリアにその姿を現された場面です。このマグダラのマリアという人物について、ルカによる福音書8:1〜3には、イエス様によって七つの悪霊を追い出していただき、病気を癒していただいた婦人であり、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続け」ていたイエス様の一行に奉仕をしていたということが記されています。病気のため、周りの人々から七つの悪霊に取り憑かれているというふうにみなされて、ひどいことに社会の片隅に追いやられてしまっていたマグダラのマリアは、イエス様によって病気を癒していただいた後は、自分に与えられた新しい人生をすべてイエス様のために用いようと心に決めて、イエス様に従って行ったのでした。おそらく、マグダラのマリアにとっては、イエス様に従うことこそすべての生き甲斐であったことでしょう。マグダラのマリアのイエス様に対する深い愛情が分かります。
 しかし、イエス様の十字架上の死によって、その生きがいは突然奪われてしまいました。こうした事態に直面して、マグダラのマリアは、せめてものことイエス様の御遺体にもう一度丁寧に油を塗ってイエス様をきちんと埋葬したいと、そしてイエス様に対する誠意を示したいと願いました。日本的・仏教的に言うならば、尼になってイエス様の菩提を弔いたいというようなことでしょうか。イエス様の死によって自分の一生も終わってしまった。後はその御遺体を守り、御遺体に仕えて生涯を過ごす以外にはないと、マグダラのマリアは考えたのでしょう。
 しかし、週の初めの日、すなわち日曜日の朝早くにイエス様のお墓を訪れた時、お墓の中は空っぽで、イエス様の御遺体は跡形もなく消えてしまっていました。イエス様を奪われ、さらには、その後の人生の中心となるべきイエス様の御遺体すら奪われて、彼女は本当に絶望の中に叩き落とされてしまったことでしょう。いったい何が起こったのか。彼女はペトロやもう一人の愛弟子のように、イエス様のお墓から立ち去ることもできずに、ただただイエス様の御遺体を求めて墓の外に立って泣くばかりでした。
  そのようなマグダラのマリアに、天使が現れます。そして、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うのです。さらに復活のイエス様も現れて、同じ質問を彼女に対して投げかけました。それは、「なぜ、あなたはイエスを、私を、墓の奥の世界、死の向こう側の世界に探しているのか」という問いかけであったことでしょう。イエス様は彼女が振り向く後ろ、まさに死とは反対の方向、人々が生きている世界のただ中に立っておられたのです。にもかかわらず、なおも死の向こう側の世界にイエス様を探そうとするマグダラのマリアに、イエス様は愛情を込めて親しく「マリア」と呼びかけられました。そして、この呼びかけによって、マグダラのマリアはイエス様の立っている方を「振り向いて」、一番初めに復活の主に出会うことができたのです。そして、イエス様の亡骸に仕える他はないと思っていた死んだような状態から、人々が生きている世界のただ中におられる復活の主に仕えていく生きた状態へと、蘇らされました。
  私は思います。イエス様がマグダラのマリアに真っ先に復活されたお姿を現されたのは、彼女が一番深くイエス様のことを愛していたからだろうと。イエス様を愛して、愛して、けれどもどこに探したらよいのかわからなかったマグダラのマリアに、イエス様は愛を持って呼びかけ、御自身との出会いに導かれました。
  聖書を読むと、復活の主がその姿を現されたのは、皆イエス様を愛した人たちにばかりだったことが良く分かります。復活の主に出会う条件、それはイエス様を愛することに他なりません。イエス様に対する愛と開かれた心がなければ、私たちは復活の主に出会うことはできないのです。
  そう考えれば、ここにこれだけの人が復活の主に出会い、集められていることが奇跡のように感じます。私たちの中には、かつて宗教に対して批判的であったり、神様、イエス様、そうした絶対的な存在に対して突っかかるようにして生きたりしていた人もいたと聞いています。神様、イエス様、そうした絶対者に依り頼まなくても、自分の力だけで生きていける、宗教なんて弱い人がはまるものだ、宗教なんて戦争の原因になったりして迷惑なだけだ、そのように心を頑なにして、イエス様には背を向けて生きてきた人もいたのです。
  けれども、ヨハネによる福音書15:16で、イエス様が「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と仰っておられるように、それぞれの人生の途上でイエス様が私たちを選び、私たちを捕らえて、私たちの心を柔らかく砕いてくださった、復活の主を愛する者へと変えてくださった、そして御自身との出会いに導かれたのです。そのことを思えば、復活の主を愛する心もまたイエス様から与えられた賜物であることが分かります。それは、今日の聖書個所でイエス様が「マリア」と呼び掛けてくださったように、復活の主に背を向けていた私たちを、イエス様の方から名前を呼び、振り向かせてくださった、そしてイエス様を愛し、新しい命に生きる者としてくださった御業に他なりません。
  私たちの群れの中には、求道中の方もいらっしゃいます。また、この世界には、かつての私たちのように宗教に対して、また絶対者に対して、心を頑なにして背を向けている人々もたくさんいることでしょう。その一人ひとりの名前を呼んで、主は振り向かせようと、そして御自分との出会いに導こうと心を砕いておられます。そのイエス様と共に、私たちもまた一人ひとりの心を耕していきたい、そうしてイエス様を愛する心を植えていきたいと願います。願わくは、この復活節のシーズン、たくさんの人々が復活の主との出会いに導かれますように。イエス様を信じ、イエス様と共に生きる希望に溢れた新しい恵み豊かな人生、命を皆で一緒に過ごして参りましょう。
             お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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