2022年 5月 8日(日) 復活節・第4主日 礼拝説教
 

「『語る』ことは『沈黙』とセット」
マタイによる福音書 28章 16〜20節 
北村 智史

  先週はゴールデンウィークでした。皆さんの中には、感染対策に気を付けながらどこかにお出かけになられた方もおられるかもしれません。久しぶりに家族で団らんの一時を過ごしてきたという方もおられるのではないでしょうか。昨年を振り返れば、この時期はずっと会堂での礼拝を休止し、皆さんにはオンラインで家庭礼拝を守っていただいていました。今年は、このようにして会堂で愛する信仰の家族と共に礼拝を守ることのできる幸いを神様に感謝いたします。まだしばらくはコロナの苦難が続きますが、今年は会堂での礼拝を休止しなければならないというようなことのないように神様にお祈りしています。今年度も神様に守られ、導かれて、皆で一緒に豊かな宣教の業を行って参りましょう。
  さて、そんな今日は聖書の中からマタイによる福音書28:16〜20を取り上げさせていただきました。「イエス様の大宣教命令」として知られている箇所です。イースターの日に空の墓を目撃した婦人たちは復活の主に出会い、こんな言葉を言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」この御言葉に従って、イエス様のお弟子さんたちはガリラヤに行きました。そして、山の上で復活したイエス様に会い、宣教の使命を与えられるのです。
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
 イエス様のお弟子さんの群れである教会は、代々イエス様のこの御言葉を大切にしてきました。イエス様のこの御言葉に従って、全世界にイエス様の十字架と復活、その福音を、またイエス様の教えや御心を宣べ伝えてきたのです。私たちもまたこの府中の地に教会を建てながら、イエス様の愛と福音とを広げていく使命を負っています。その意味では、例えば毎主日に礼拝の中で牧師が御言葉を語っているように、まさに「語る」ということが私たちにとって大切になってくるわけですが、私は思います。「語る」ということは「沈黙」とセットでなければならないと。
  たとえば、私は毎週礼拝の説教を語るために、まず黙想というものをします。聖書を前に沈黙し、静かに己の内面を見つめ、神様はこの御言葉を通して何を私たちに語ろうとしているのか、静かに神様の御声に耳を傾けて、はたして私たちはその御言葉にふさわしく生きているのか、己に問います。そうした作業がなければ、御言葉を語ることはできません。自分の、自分勝手な、自分本位の言葉を語れても、神様の御言葉とはならないのです。
  何かを語ろうとするときは、まず沈黙し、己を見つめ、神様の御声に耳を傾ける。それが必要なのは、説教を行う牧師だけでは決してありません。実は、私たちすべての人に必要なことです。
  私がこれまで出会った難儀な人に、こんな種類の人たちがいました。周りを困らせるようなことをなさるので、それに対してはNoと言うのですが、そうすると自分を省みるよりも何よりも腹を立てて、ひどい言葉でこちらを攻撃してくるのです。自分の行状はまったく棚上げにして、自分に都合の良い理屈ですね、ああ言えばこう言うという感じで自分を正当化し、こちらがおかしいと、相手を傷つけてやっつけてやろう、論破してやろうという悪意たっぷりに言葉を吐いてこられます。
 まあ、言い合いなどというものはどちらが正しく、間違っているというよりも、我の強い方が勝つようになっていますから、そういう方は言い合いには強くて負けないようです。「自分は弁が立つ」と、そのことを自分で誇りに思っていらっしゃるような方もおられましたが、結局はそれで自分を全く省みないものですから、人間的な成長はありません。私たちは人に間違いを指摘されて自分を振り返り、「ごめんなさい」と言うことで成長していくところがあるのですが、そういう方はそうした経験をなさらないで、いつも自分が正しいと信じて疑わないものですから、自分が変わるということがないのです。結局、どこに行っても同じトラブルを起こして社会からフェードアウトしていく。そういう状況になっているのに、「自分はおかしくない。正しい。自分は理不尽な目に遭っている被害者だ」、そう信じ込んで疑わない、そういう方を私はこれまで何人も見てきました。
  そういう方と対話しなければならなくなった時にいつも思うのです。「『相手を言い負かしてやろう』と言葉を発するよりも前に、まず沈黙して自分と向き合って欲しい」と。いつだったか、朝日新聞の「折々のことば」というコーナーに載っていた、作家で明治学院大学名誉教授の高橋源一郎さんの言葉を思い出します。「誰かを論破しようとしている時の人間の顔つきは、自分の正しさに酔ってるみたいで、すごく卑しい感じがする」。この時の「折々のことば」を書いた鷲田清一さんは、高橋さんのこの言葉を取り上げて、こう語っておられました。「対話は、それをつうじて各人が自分を超えることを希ってなされる。相手へのリスペクト (敬意)と自己へのサスペクト(疑念)がなければ成り立たない」と。
 対話や議論において大切なのは、勝ち負けでは決してありません。相手に敬意を払い、自分を見つめ、それからお互いの意見を十分主張する、そして、そのメリットデメリット両方を理解してお互いに折り合うところを見つけていくのです。勝ち負けではなく、お互いが協力して納得する答えを見つけ出したという結果に持っていくことができれば素晴らしいことですし、人間的な成長に繋がります。
  自分を見つめることなく、ただただ自分を正当化しよう、相手を言い負かしてやろう、傷つけてやろう。そんな言葉で、どうしてイエス様の愛と福音が宣べ伝えられるでしょうか。
かつてマザー・テレサは神様を「沈黙の友」と呼び、祈りにおいては沈黙が第一であると語りました。「ほんとうに祈ることを望むならば、まず、聴くことを学ばねばなりません。神は、沈黙のうちにある心に語られるからです。この沈黙を理解し、神の声を聞くためには、澄みわたった心が必要です。澄みわたった心は、神を見つめ、神の声を聞き、それに耳を傾けます。そのとき初めて、わたしたちは、心の底から神に語りかけることができるのです。耳を傾けることなくして、心の沈黙のうちに神とつながることなくして、わたしたちは神に語りかけることができないのです」。
  このように、神様に語りかける時には、まず沈黙が必要であると、そうして己の心を整えて神様の御声に耳を傾けることが必要であるとマザー・テレサは言います。しかし、それは神様だけでなく、人に対して語りかける時にも必要なことではないでしょうか。
実際、マザー・テレサも、先程の祈りにおける沈黙の重要性を語った言葉の続きでこのように語っています。「沈黙は、すべてのものに対して、新しい視点を与えてくれます。人々の魂に触れるためには、沈黙が必要なのです。大切なのは、わたしたちが何を語るのかではなく、神がわたしたちに何を語るのか、また、わたしたちを通して何を語るのか、ということです」。この言葉と合わせて心に留めておきたい御言葉がエフェソの信徒への手紙4:29です。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」。
  私たちが語るべき宣教の言葉、イエス様の愛と福音とを豊かに宣べ伝えていく言葉、それはまさに「その人を造り上げるのに役立つ言葉」です。悪い言葉を避けて、そのような言葉を人に対して語っていくために、そうして、自らが神様の御言葉の仲介者となるために、人に言葉を語る時はまず沈黙し、己の心を整えたい。そうして、神様の御言葉にしっかりと耳を傾けていきたいと願います。悔い改めとセットになった、キリスト者にふさわしい言葉のマナーで、今年度もしっかりと神様に、御言葉を宣べ伝えていく器として用いていただきましょう。そうして、イエス様の大宣教命令に豊かに応えていきたいと願います。
            祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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