2022年 5月 15日(日) 復活節・第5主日 礼拝説教
 

「岩の心で」
ルカによる福音書 5章 1〜11節 
ヨハネによる福音書21章1〜14節 

北村 智史

  東京府中教会の子どもの教会では、『教師の友』という雑誌を教案誌にしています。この雑誌は季刊誌になっていまして、3カ月に一度発行されるのですが、その中の記事に「聖書に脇役はいない」というシリーズがあります。毎回、聖書の登場人物、それも取り上げられることの少ない人物にスポットが当てられて、話がまとめられているのですが、非常に面白いんですね。改めて聖書に登場する人物を深堀りすると、思いがけない発見があったりして聖書の読みが深められます。今日の私のお話では、「聖書に脇役はいない」のシリーズとは違い、割と取り上げられることの多い人物になってしまいますが、ペトロという一人の人物を取り上げたいと考えています。このペトロ、非常に興味深い人物でして、そこから窺うことのできる人生の教訓のようなものをお話しできたら幸いです。
 さて、そういうわけで、今日は聖書の中から、ペトロがイエス様の弟子になった場面と、復活の主がペトロを初め、7人の弟子たちに現れる場面を取り上げさせていただきました。読んでみても分かる通り、後者のお話は前者のお話を彷彿させるものになっていまして、この二つのお話は深いところで繋がっていると私は思います。なので、今日はその繋がりの中でこの二つのお話を見ていきたいと考えています。まずはルカによる福音書5:1〜11を見てみましょう。
  既に申し上げました通り、このお話はペトロがイエス様の弟子として召される場面です。このペトロという人物は、本名をシモンと言います。「ペトロ」というのは、イエス様がお付けになったあだ名なんですね。その他にも、イエス様はこのシモン・ペトロに「ケファ」というあだ名もお付けになっています。「ペトロ」も「ケファ」も、「岩」という意味です。マタイによる福音書16:18で、イエス様は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と仰っておられますが、イエス様がシモンに「ペトロ」とか「ケファ」とかいうあだ名を付けたのには、「あなたは岩だよ。教会の土台石になるんだよ」という、そういう意味合いがあったものと思われます。
  なんにせよ、ペトロはこのルカのお話の中で、突然イエス様の弟子に招かれました。イエス様の方からペトロの船に乗ってきて、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言うのです。既に夜通し漁をしてまったく何も取れなかったペトロですが、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、イエス様の言葉に従います。すると、どうでしょう。おびただしい魚がかかり、網が破れそうになる、そして二そうの舟が魚一杯になり、沈みそうになる結果になりました。
  驚き、ひれ伏すペトロにイエス様は言います。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。私の弟子になるようにという誘いです。「これからはあなたは私の弟子になり、『人間をとる漁師』として福音宣教に仕えるんだよ。大丈夫、私が一緒にいるから、あなたはきっとその宣教の中で、今回経験したみたいな大漁を経験するよ」。イエス様のこの言葉に、ペトロたちはすべてを捨ててイエス様に従いました。
  これだけを聞くと、「ああ、イエス様、ペトロさんに立派な教会の土台石になれる素質を見抜いて、ここで弟子に招かれたのかな」と思う人もいるかもしれません。しかし、見逃せないのは、驚き、ひれ伏したペトロがイエス様に言った次の言葉でしょう。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。
  そう。ペトロはある人が思うような立派な人物では決してありませんでした。彼は自分でもこう言うくらい、弱さと欠けと罪に溢れた人物だったのです。事実、イエス様の弟子になった後、ペトロは嫌というほど失敗を犯します。何度も何度もイエス様の御心を理解しそこない、果てには「サタン、引き下がれ」と最大級のお叱りをイエス様から受けてしまうペトロ。最後の夜に「自分だけは裏切らない」と誓っておきながら、たちまちのうちに「そんな男は知らない」と断言し、イエス様を否認してしまうペトロ。そんな自分のだめさ加減に愛想をつかし、ボロボロと涙を流すペトロ。どれも福音書の中に記されている、紛れもないペトロの姿です。
  しかし、イエス様は決してそんなペトロをお見捨てになりませんでした。今日の聖書個所のもう一つの個所、ヨハネによる福音書21:1〜14で、復活の主はペトロを弟子に招かれたのと同じ状況、すなわち大漁の奇跡を再現して、ペトロを再び御自分のもとに招くのです。そして、その直後に「わたしの羊を飼いなさい」と、宣教の使命を委ねられました。ヨハネによる福音書に描かれているのは、復活の朝、再度主に招かれて宣教の使命を委ねられ、まさに失敗から蘇って奮い立つペトロの姿です。
  でも聖書には、それにもかかわらずまたまた失敗を繰り返し、パウロから非難されてしまうペトロの姿がはっきりと記されています。
  ある意味ではダメ人間の典型と思われるかもしれない。でも絶対にお見捨てにならないイエス様の愛を受けて、ペトロは絶対に諦めません。そして、とうとう生涯の最後までイエス様から離れ去ることなく信仰の道を歩み通すのです。信じて、失敗して、叱られて、でも主の限りない慈しみの下で立ち直って、また失敗して、それでも諦めずに主の御心に生きて……。こうした憎めなさ、人間臭さがペトロの最大の魅力になっていると私は思います。イエス様の愛のもと、泥臭く己の罪や欠け、弱さと向き合い、度重なる失敗の中、諦めずに信仰の道を走り通したこの姿こそ、私たち信仰者の模範に他なりません。
  こうしたことを思う時、イエス様がシモンに「ペトロ」や「ケファ」という「岩」を意味するあだ名を付けたのは、御自分の愛のまなざしのもと、頑として諦めない、まさに石のような、岩のような心を持っていたからだと思うのです。イエス様が「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と仰られてペトロに天の国の鍵を授けられたのは、彼が弟子として特別立派な資質を持っていたからということではなく、このような性質、岩の心を持っていたからではなかったでしょうか。この性質、この心のゆえに、ペトロは初代教皇として教会の土台石となったのだと私は思います。
  この岩の心ですね、「石の上にも三年」ということわざがありますけれども、イエス様の愛のまなざしのもと、頑として諦めずに己の罪や弱さ、欠けに向き合っていく、そうして信仰の道を、また生涯を走り通していく、どっしりとした心を私たちも宿したいと願います。そうして、岩が苔を備えて美しくなっていくように、自らの姿を輝かせていきたいと願います。
 私たちの中には、ペトロが「わたしは罪深い者なのです」と言ったように、「こんな自分が……」という思いを抱えた人もいるかもしれません。「こんな自分が信仰者としてやっていけるだろうか」、あるいは「こんな自分が社会でやっていけるだろうか」、そんな思いにさいなまれている人はいないでしょうか。かく言う私もかつてはそうでした。
  10代の頃、また20代になってもその半ばまで精神的に特に不安定で、人が当たり前のようにやることも、私にとってはできないことだらけでした。大学のオーケストラサークルの初舞台で過緊張の症状を起こしてしまい、がたがた体が震えて何の音も出せなかったことをよく覚えています。渉外というのですけれども、企業に私たちサークルの演奏会のパンフレットに広告を出してもらうようにお願いする電話も満足にかけれなかったし、人とコミュニケーションを取るのが大の苦手で、神学生時代、実習先の教会で苦労しました。そのたびに人と比べてしまって、惨めな思いをたくさんしました。「こんな自分が牧師になんかなれるのかな。信仰者としても、社会人としてもやっていけるのかな」、そんな思いにさいなまれました。
 でもその時にいつも心の中にあったのが、ペトロの姿です。そして、ペトロを生かしたイエス様の優しく温かい愛のまなざしです。ペトロのように、どれだけ失敗しても、惨めな思いをしても、イエス様は決して自分をお見捨てにはならない、優しく見守ってくれている、支えてくれている、その愛を信じて、ひたむきに自分の弱さや欠け、罪と向き合って歩んで行こう。一歩、一歩、たとえ少しずつであっても着実に前へ進んで行こう。その積み重ねで今まで歩んできました。
 馬鹿にしてくる人もいます。笑う人もいます。私は3年遅れで大学に入ったのですが、3つ年下のクラスメイトに、「なんだあいつ、こんなこともできないのか」と散々馬鹿にされて笑われました。でも、神様、イエス様は決して笑わないし、馬鹿になんかしたりしない。私を根底から支えて、一緒に歩んでくださった。皆さんの目に今の私がどう映っているかは分かりませんが、牧師としてそれなりに歩めているなら、それはまったくイエス様のお陰なのです。
  とは言え、ペトロが復活の主に出会った後も失敗を重ねたように、今も私は失敗と言いますか、弱さを経験します。去年の12月から今年の2月にかけて、教会外のご奉仕ですごくストレスがあって、心の健康を害してしまいました。結局、そのご奉仕から離れさせてもらうことになって他の人にご迷惑をおかけしてしまうことになったわけですが、そういう時に自分の脆さと言いますか、繊細さを痛感いたします。
  でも、今回のことに関してはこれで良かったのだとも思うのです。困難に直面した時、変に一人で抱え込んだり、頑張ろうとしたりする必要はない。神様はきちんとそういう時に助け手を用意してくださる。実際、今回のケースに関して言えば、私の状況を知った仲間が、「北村さん、もうしんどい場面に出なくていいよ。経験豊富なベテランの人が対処してくれるから」と言ってしんどいところから外してくれましたし、色々なところで相談に乗ってくれました。自分の弱さや欠け、足りない部分は、遠慮なく他の人に補ってもらったらよいのだと思います。
  弱さを経験する時に大切なのは、へこたれないこと、そして頼ることです。それさえあれば、人生は歩み通していける。私の経験から、そう思います。仏教で言う「縁」みたいなものも、私たちにはきちんと神様から与えられているのです。他の宗教が混ざった言い方になってしまいますが、神様が下さる「縁」を大切にしながら、ペトロのように、神様、イエス様の愛のまなざしのもと、頑として諦めない岩の心で生涯を力強く歩んで行きたいと願います。大丈夫。絶対に大丈夫。「Go, go, go in peace. Be strong! Mysterious Hand guide you!(安心して行きなさい。強くあれ!不思議な神の御手があなたを導く!)」同志社の校祖・新島襄が第1回の卒業生に送ったこの祝福の言葉で今日の説教を終わります。
          お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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