2022年 5月 22日(日) 復活節・第6主日 礼拝説教
 

「聖書から知恵を」
テモテへの手紙二 3章 14〜17節  
北村 智史

  今日は午後から、高尾にある東京霊園の教会墓地で墓前礼拝が予定されています。振り返ってみれば2021年1月末に完成した東京府中教会の墓地でしたが、昨年11月に教会員のご夫君のご遺骨をお納めしまして、実際の教会墓地の使用が始まっています。今回、初めて墓前礼拝を執り行うわけですが、この方を初め、既に神様の御許に召された東京府中教会の信仰の先輩方を皆でお偲びし、御国の希望を思い、信仰を強められる一時を過ごして参りたいと存じます。ご出席される方は、どうぞ足元に気をつけて東京霊園までお越しください。願わくは、神様が私たちの墓前礼拝を祝福し、豊かな慰めの一時となりますように神様にお祈りしている次第です。
  さて、今日取り上げさせていただきました聖書個所は、テモテへの手紙二3:14〜17です。ここには、私たちが普段から大事に読んでいる、そして毎回礼拝の中で読まれている聖書について、とても大切なことが書かれています。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができ」ると言うんですね。聖書を通して私たちが与えられるのは、知識では決してありません。それは、知恵なのです。
  では、知恵と知識とは、どう違うのでしょうか。このことに関連して、子どもの教会でも教案誌として使っている『教師の友』に、とても興味深いことが書かれていましたので、紹介させていただきます。こんな記事です。
  「ホームスクール(学校ではなく、家庭を拠点とした教育)を体験した人と、こんな話をしたことがあります。私は社会科の地理が特に好きだったので、『地理をどうやって家で学んだのですか』と聞きました。返ってきた答えに私は驚きつつ、深く感心しました。
  『例えば〇〇という国では、△△という自然の条件があって、□□という問題がある。だから、そこに暮らす人々の祈りの課題は何だろうかと考えながら知識を習得してきた。このような学び方のおかげで信仰も養われたし、世界への関心や見方も豊かに培われたように思う』
  学校教育や受験のあり方、学ぶことの意味などについて、いろいろ考えさせられる言葉です。私たちは『地理』に限らず、生きる上で実に多様な知識を習得し続けています。言ってみれば、毎日が『人生』という名の授業であり、学びです。勉強、仕事、趣味、健康、恋愛…・。
こうした活動を充実させるために知識をモノにし、努力を重ねます。
  ただ、その時にふと思うのです。日々吸収する知識。理解や把握という網で捕らえ続ける知識、そして世界。けれども、そこで本当に捕らえられているのは、知識ではなく、私たちではないでしょうか。知識に接近すればするほど、その知識の向こう側から私に呼びかける声が聞こえてくる。耳を澄ますと、問いかけているようにも聞こえる。そして聴くのです。あなたは今日、これを学んで、どう生きるのか?
  答えはさまざまでしょう。その知識で知りえた人々や事柄のために祈ることかもしれません。あるいはそのために何かを決断し、立ち上がるかもしれません。何かを捨てたり、ささげたり、道を変えたりするかもしれません。読み込んだ知識から、逆に自分自身が読まれていることに気づかされた時、思いもよらぬ景色が新たに広がります。」
  こうした記事を読みまして、学生時代、自分はこんな風な学びをどれほどすることができたか、反省させられました。学校で、私たちはたくさんの知識を学びます。しかし、ともすれば私たちは、その知識を暗記するだけで終わってしまってはいなかったでしょうか。また、今の子どもたちもそれだけで終わってしまってはいないでしょうか。それは、実は非常にもったいないことなのです。それだけで終わってしまうのではなく、「あなたは今日、これを学んで、どう生きるのか」、その知識から問われて得られる答え、身に着く私たちの生き方、それが知恵なのでしょう。知識を得て、それで満足するのではなく、その知識から自らの生き方を問うて知恵に至る学び方を、私たちはしていかなければなりません。
  それは、聖書についても同じです。説教でも聖書研究会でも、私は聖書について様々な知識をご紹介しますが、決してそれだけでは終わらないように心がけています。そこから私たちの生き方を問うて、人生の糧となる知恵、私たちの生き方を導いてくれるような知恵、果ては今日の聖書個所が語るように、「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵」が与えられるように、聖霊による導きを祈りつつ、心を砕いているのです。
  ミッションスクールの子どもたちの中には、「聖書の授業なんて、受験にも必要ないし、何の意味があるのか?」と、他の授業と比べて身が入らない、そんな子どもたちもたくさんいると聞いています。「聖書を学んでどうなるのか」と言うのですね。でも、聖書は実は知恵の宝庫なんです。聖書を知り、その向こう側から呼びかけてくる声、「あなたはこれを知って、これを学んで、どう生きるの?」と呼び掛けてくる神様の御声に答えていく中で、私たちは人生に役立つ、そして人生を豊かにしてくれるたくさんの知恵が身に着きます。そうして究極的には、「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵」、死をも超えていけるような知恵が与えられるのです。
  なので、子どもたちにもぜひ聖書に興味を持ってもらいたいと思いますし、私たちも知識で終わってしまうのではなく、知恵に、それも私たちを救いに導いてくれる究極の知恵に至るような聖書の読み方をしていきたいと願います。日々聖書に親しみ、聖書から問われて、皆で豊かな知恵を与えられていきましょう。神様に養われて、人生の最後まで霊的に成長していきたいと願います。
           お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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