2022年 6月19日(日) 聖霊降臨節・第3主日 礼拝説教
 

「ユダの救い」
使徒言行録 1章 15〜26節  
北村 智史

  私たち人類が新型コロナとの闘いを強いられてから、今年で3年目となります。誰もが経験したことのない未曽有の事態に、教会としても様々な対応を迫られました。その都度、役員の方々を初め、教会員の方々と話し合いながら様々な対策を行ってまいりましたが、一番私たちが心を砕いたのは、どうやって礼拝の灯を守り続けようかということと共に、教会員がコロナの中で孤立してしまわないようにということだったと思います。
 このコロナという疫病が恐ろしいのは、身体的に人々を苦しめて、時にはかけがえのない命を容赦なく奪っていくということもさることながら、人々の間に分断をもたらしたり、人々を孤立させたりするということでした。アジア人に対するヘイトクライムや医療従事者に対する差別、ヘイトクライムがそこかしこで起き、さらには友達同士、仲間同士で集まったりできなくなり、家に閉じこもらなくてはならない機会が多くなりました。人との接触が断たれ、高齢の方や障がい者などが必要な支援を受けられなくなって、孤立しています。
  そのような中で、孤立する教会員が出ないように、たとえ会堂に集えない時期があっても教会員同士連絡を密にしたり、お電話やお葉書の牧会を丁寧にしたりして、交わりを確保するように工夫を重ねました。今、社会では、コロナのために経済的に苦しくなったり、それでも人に相談できなくなったりして、鬱になる人が増えているそうです。悲しいことですが、それで自ら命を絶ってしまう人も増えていると聞きます。
  コロナとも関連があるのでしょうか、芸能界の間でもここ数年、著名人の自死のニュースが相次ぎました。まさに自死という事柄が社会問題になっている中で、私たち教会はどのようにあるべきなのか、考えさせられます。自ら命を絶った人は聖書の中にも出てきまして、今日はイエス様を裏切って自ら命を絶ったイスカリオテのユダを取り上げながら、私たち教会は自死という社会問題にどのように向き合うのか、考えていきたいと願います。
  さて、先程お読みいただきました聖書個所は、使徒言行録1:15〜26です。ここにはペトロの呼びかけで、自死したイスカリオテのユダの代わりにマティアという人が使徒に選ばれる様子が描かれています。目を引くのは、何と言ってもユダの悲惨な最期でしょう。
 16〜22節で、ペトロは「百二十人ほどの人々」に対して最初の説教を行いますが、その内容は、「イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについて」でした。十二使徒として選ばれながら、イエス様を裏切ったユダの運命は、他の弟子たちにとって決して無関心でいられる事柄ではなかったのです。そして、18節に描かれているユダの最期は本当に悲惨です。
 ユダの最期はマタイによる福音書27:3〜10にも記されていまして、これによると、ユダはイエス様に有罪の判決が下ったのを知って後悔し、イエス様を売り渡して得た銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返し、取引を撤回しようとするのですが、受け入れられず、首を吊って自死したとなっています。さらに、今日の聖書個所の18節では、「地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」と記されていまして、これらを考え合わせると、ユダは最期、縄で首をくくり、まっさかさまに落ちて、体が真っ二つに裂けてしまったということになります。
  見逃せないのは、ペトロがこうしたユダの運命を聖書の御言葉の成就として理解していることでしょう。つまり、ユダがこうした運命を辿ったのは、イエス様の十字架の出来事が成し遂げられるために神様が初めから計画されていたことだったと言うのです。そして、ユダは「自分の行くべき所に行」った、すなわち地獄に行ったとペトロは言うのですが、果たして本当にこれが神様の御心だったのでしょうか。
  すべてが神様の御計画と言うのなら、あまりにもユダに対してひどすぎると言いますか、救いがなさすぎると私は思うのです。ユダもまた神様に用いられた人だったのなら、ユダにも救いが用意されていてしかるべきではないのか。それが私の素直な思いです。
  聖書を読み返して、このユダという人物がどのような人だったのかを改めて確認すれば、その思いはますます強められます。このことに関連して、『天国なんてどこにもないよ――それでもキリストと生きる』という説教集をお書きになったルーテル教会牧師の関野和寛先生は、「ユダは裏切り者なんかじゃないだろう?」という説教の中で、ユダについてこう語っておられます。
 「ユダはイエスの弟子の一人で、会計を任されていた。代表的な弟子のペトロやヤコブ、ヨハネ、トマスはイエスの前でドジをしたり、下心を丸出しにして失言したり、怒ったり、悲しんだりと、そのひととなりが描かれている。けれども、ユダに関してはほぼ何も書かれていない。福音書は弟子の成功よりもむしろ失敗を書いている。そう考えるならば、ユダは失敗が少なかったと言われる。ユダはグループの活動費や食費などすべてを管理していた。つまり神の国の活動の財源を任されていたのだ。弟子の中には税金取り、不正に金を民衆から絞っていたとはいえ、金勘定のプロもいた。なのにどうしてユダが選ばれたのだろうか。
  きっと、イエスを含め弟子たち全員が、『あいつにだったら任せられる』『あいつにだったらお金を託して大丈夫だ』、そんな信頼があったからであろう。金勘定のプロとはいえ、昨日までひと様の金を絞りとっていた者に任せるのはやはり危うい。他の弟子たちも気性が荒い奴が多いし、漁師は金勘定なんてしたことがない。そこで白羽の矢が立ったのがユダだったのではないか。
  皆からの厚い信頼があり、能力もあったのであろうユダは、活動費のすべてを預かり、日々それを管理し、目立たないけれども縁の下の力持ちとして仕事を続けてきたのだ。このようなひとがどこのコミュニティーにも、会社にも教会にも、そして家庭にも必要だ。そういうひとがいなければ組織や事柄が回っていかない。ユダとはそういうひとだったのだと思う。
  聖書には『彼は、盗人であって、その中身をごまかしていたから』と書いてあるけれども、聖書に書かれたことばをよく読んでみると『彼はその中身を自分の思いで使っていた』そう書いてある。『自分の思い』とは何だったのだろうか?きっとそれは勝手に浪費していたのではなく、ユダの最善の策だったのだと思う。『ここで節約すれば何とか回っていく』『こうすれば、次の村に行ける』『パンが安いこの村で買いだめしておこう、そうすれば皆の明日までの食糧が確保できる』。そうやって自分で知恵を振り絞り、何とか最善を尽くし切り詰めてやってきたのではないだろうか。
  けれどもある日、事件は起きた。べタニア村のマリアが、兄弟ラザロを生き返らせてもらったこと、そして自分自身を救ってくれたことの感謝として、突如何百万円もする香油の壺を割り、イエスにそれを注いだのだ。それはマリアの最大限の感謝だったし、イエスはそれを『十字架にかけられるわたしへそうしてくれているのだ』と説明した。けれども、ユダの感情はそこについていけなかった。それを見た瞬間、ユダはブチギレてしまった。
  自分は少しでもみんなを助けたいと思って切り詰めてやってきたにもかかわらず、ひと時も離さず守っていた財布に入っていないような金額の香油が、目の前で湯水のようにイエスに注がれたのだ。
  これまでユダは予測不可能なイエスのやり方に何度も何度も自分の本心を?み込んだはずだ。『なぜ、ここで、ありったけの金を使って食事を配ってしまうんですか?』『弟子たちだって、あなただって食べてないはず。なぜここで、この金を使うんですか?』。何度も何度も疑問を持ったけれども、それを口にせず耐えていた。
  イエスの破天荒さ、周りの弟子たちの無神経さの狭間で『なぜ、そんなことをするのだ!』と怒りを感じ、だがそれを端に寄せて、歯を食いしばり忍耐し続けてきたのではないか。現実社会にもそのように働いているひとがたくさんいる。会社で、教会で、家庭で、自分の感情を押し殺し、周りのひとびとのために懸命に努力しているひとがたくさんいる。ユダはその代表だったと思う。だがそんなユダの誠意を認めることなくイエスは言った。『貧しいひとびとはいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。マリアは良いことをしたのだ』と。
  コツコツと働いてきた自分は褒められず、突飛な行動でマリアは褒められる。この一言にユダの気持ちは爆発した。
  ……(中略)……堪忍袋の尾が切れたユダは、怒りのコントロールが効かず、とっさにイエスのいのちを狙っていた祭司たちのもとに出かけ、『イエスを引き渡す』、つまり金で売り渡す約束をしてしまうのだ。銀貨三〇枚。一〇〇万円に満たないほどの金だろうか。だが、ユダは金が欲しかったのでも、イエスが憎くてたまらなかったのでもない。抑え込んでいた感情が爆発し、自らも信じられないような行動をとってしまったのだ。いざ自分が売り渡してしまったイエスが死刑になると聞いた時、ユダは握りしめた銀貨三〇枚をもって祭司長たちのところに直訴しに戻る。『わたしは罪のないひとの血を売り渡してしまった』『わたしは罪を犯した』『私の先生、イエスさまを返してくれ!』と。
  冷静さを取り戻したユダは自分がとんでもないことをしたと気がつき、イエスを彼らの手から取り戻そうとした。真面目で実直だったと思う。そして、このようなひとびとが社会を支えている。このようなひとが必要だ、会社にも教会にも、そしてあなたの家庭にも。そしてイエスよ、あなたもそんなユダを必要とし、声をかけて自分の弟子にしたのだろう。
  ユダは真面目なひとだった。いざ祭司長たちに『金を返すからイエスさまを元に戻してくれ!』と直訴するものの、それが叶わないと知ると、木で首を吊り自らいのちを絶ってしまったのだ。ユダは真面目だ。他の弟子たちだってイエスを裏切った。けれども、彼らは逃げ出し身を隠しながら生き延びた。だけれども、ユダはそうやって自分や現実をごまかして生きてはいけない。ユダは真面目なひとだ。」
  そんなユダに対して、聖書は悲惨な最期を記し、「行くべき所に行」ったと地獄行きを宣言します。教会も伝統的にユダに裏切り者のレッテルを貼りつけて極悪人としてきました。それだけではありません。この世界には、ユダと同じように真面目で、自ら命を絶ってしまう人々がいます。誰よりも周りを優先し、自分を後回しにする人々、不器用で世渡りはうまくなくても、コツコツと積み上げて信用を得てきた人々、社会を良くしようと必死に行動してきた人々、嘘が許せない人々、そんな人々が追いつめられて命を絶つ以外に選択肢がなくなって突如この世界から消えてしまう。そうしたケースが山ほどあるのです。しかし、教会は伝統的にこのように自死する者に対して、罪人というレッテルを貼ってきました。自分を殺した者として、「汝殺すなかれ」の十戒に背いた者として、裁いてきたのです。ひどい場合には、葬儀を断るというような場合もありました。
  しかし、教会は本当にそれで良いのでしょうか。イエス様がすべての人々を救うメシアであるならば、ユダも救われなければならないはずです。ユダが地獄に落ちていると言うなら、その地獄にまでも赴き、一回の過ちを赦し、迎えに行って神の国に招き入れるのがイエス様ではないでしょうか。同じように教会もユダの救いを真剣に考えて、さらにはユダと同じように自死してしまった人々の救いを真剣に考えなければならないはずです。
  もちろん、私は自死を肯定するつもりは毛頭ありません。自死の良くないところは、残された人々に大きな傷を残し、苦しめてしまうことです。家族や友達は、「どうして何もしてあげられなかったのだろうか」という思いにさいなまれてしまいます。自死を考えている人がいれば、何としても思い止まってもらいたいと思いますし、そのために教会として寄り添っていきたい、また自死を減らすための活動を支援していきたいと考えています。しかし、残念ながら自死が起こった場合には、故人もまたイエス様の救いの御手の中に置かれていることを説き、残された家族と共に涙を流して、その慰めを考えていきたいと思うのです。間違っても故人を裁き、罪人として地獄行きを宣言するような牧師にだけはなりたくありません。
  願わくは、主が悩めるすべての魂に寄り添ってくださいますように。教会としてもっと真剣にユダの救いを考え、また自死の問題に取り組んでいきたい。そうして、自死の抑止と、残された者の癒しに貢献していきたいと願います。
               祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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