2022年 6月26日(日) 聖霊降臨節・第4主日 礼拝説教
 

「自分を愛するコツ」
  使徒言行録 2章 43〜47節  
北村 智史

  聖書には、「隣人を自分のように愛しなさい」という御言葉が出て参ります。この御言葉は、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」ということで、自分が自分を愛していることが前提になっている御言葉だと私は思います。けれども、今の時代はこの前提が当たり前ではなくなっている、そんな時代になっているのではないでしょうか。
  いつだったか、ミッションスクールの聖書科の先生をしている方からこんな話を聞いたことがあります。子どもたちに自分の好きな所と嫌いな所を書かせたら、嫌いな所はいくらでも書くのに、好きな所は2、3個でペンが止まってしまうと言うのです。このことが象徴するように、今の時代は自己肯定感が持てない人でいっぱいです。そのような中にあって、私たちはどのようにすれば自分を愛することができるのか、今日はそんなお話をしていきたいと考えています。
  さて、先程お読みいただきました聖書個所は、使徒言行録2:43〜47です。ここには、生まれたばかりの教会の人々がどのような生活をしていたかが記されています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」。こうした信者たちの生活は、民衆全体から好意を得ました。そして、日々教会の仲間になる者が現れたのです。
  古代のあるキリスト者が残した、次のような言葉を思い出します。「私たちの間には、自分の信じる宗教の長所を言葉で説明することのできない無学者や労働者や老婆などがいるが、彼らはそれを行為にあらわしている。彼らはなんの演説もしないが、善い事を実行している。打たれても打ちかえさない。物を盗まれても訴えて出ない。彼らは求める者に与え、隣人を自分自身のように愛している」。(R・ベイントン『世界キリスト教史物語』教文館、1995年、25頁)
  初代教会の時代、このような名もないキリスト者たちの黙々とした信仰生活の積み重ねが、人々の心を打ちました。そして、救われる人々を次々と生み出したのです。当時の社会の人々にとって、キリスト者たちが語るイエス様の教え、またイエス様に従うキリスト者の生活や行いがどれだけ画期的なものだったかが良く分かります。
  たとえばイエス様の教えに愛敵の教え、すなわち「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えがありますが、こうした教えも当時の社会の人々にとっては非常に画期的なものだったことでしょう。「隣人を愛し、敵を憎め」。これが当時の社会の人々にとっては常識でしたし、自分に良くしてくれる人は好感が持てて愛せても、自分に嫌なことをしてくる人は嫌いで愛せないというのが普通でした。それなのに、なぜキリスト者はそんなことができるのか、人々は不思議に思うと同時に魅かれました。
  イエス様の愛敵の教え、それは神様を抜きにしては決して理解できない教えです。なぜ「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈」るのか。それは他でもない神様が人をそのように愛されるからです。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。イエス様も自分を迫害し、十字架につける人間の罪深さにもかかわらず、その人間を愛し、罪の贖いを成し遂げられました。自分を愛し、自分に良くしてくれる人だけを愛するのが神様の愛ではありません。敵をも愛し、その敵すら変えてしまうのが神様の愛です。神様がそのように人を愛されるから、私たちもまたそのように人を愛そうと努めるのです。
  そして、今日の冒頭のお話との絡みで言えば、このように人を愛することこそ自分を愛するコツだと私は思います。先程申し上げたように、自分の好き嫌いを越えて相手の人格を認め、大切にすることをキリスト教では「愛」と呼びます。それは自分の好き嫌いという枠を超えて相手をかけがえのない、共に生きる者として受け入れることに他なりません。そしてそのように人を愛することができる時、同じようにありのままの自分を受け入れ、自分を肯定することができるのではないでしょうか。
  敬和学園というミッションスクールの機関誌に、卒業生が文集に書いたこんな文章が掲載されていました。「私が敬和に来て変わったことは、人の長所と同じくらい短所を愛せるようになったことです。相手に嫌な部分があったとしても、共に過ごす日々の中でそれを超える良さがあることに気づき、嫌な部分も含めてその人は『良い人』なのだと思えるようになりました。それと同時に、自分自身の嫌なところを受け入れ、私という存在を大切にすることができるようになりました。」
  この卒業生が神様の愛のもと、人間的に豊かに育まれたことが良く伝わってきます。神様に倣い、好き嫌いを越えて目の前の人のありのままを受け入れ、大切にすることを通して、ありのままの自分を愛し、大切にすることをこの人は学んだのでした。
  実に神様の愛の実践は、自分を肯定することにもつながります。自分には好きな部分も嫌いな部分もあるかもしれません。またある人には自分の嫌いな部分ばかりが目に付くかもしれません。そんな自分を愛するために、まずは目の前の人の好きな部分、嫌いな部分も含めてありのままを愛することから始めましょう。そうすれば、きっとありのままの自分を愛せるはずです。そして、そのように自分を愛し、大切にすることができれば、今まで見えてこなかった自分の好きな部分もたくさん見えてくることでしょう。
  「私にとってありのままのあなたがすべて大切で素晴らしい」。この礼拝の一時、そのように呼びかけてくださる神様の愛の御声にしっかりと耳を傾けましょう。そして、豊かに人を愛し、自分を愛して、人間的に育まれていきたいと願います。

                祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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