2022年 7月10日(日) 聖霊降臨節・第6主日 礼拝説教
 

「神の業が現れるために」
  ヨハネによる福音書 9章 1〜3節  
北村 智史

  7月第二主日の今日は、日本基督教団の暦では「部落解放祈りの日」とされています。この「部落解放祈りの日」については過去の説教の中で既に何度かご説明したことがあったかと思いますが、ご存じでない方もおられると思いますので、ここで改めて説明させていただきますと、1975年5月15日、日本基督教団は部落差別問題に関して公式会見を求められまして、当時の部落解放同盟の人権担当者、および大阪府と東京都の人権担当者から、日本基督教団内にひどい部落差別の事例が放置されたままになっていることが指摘され、大変なお叱りを受けました。教団としてはこの事実を重く受け止めて、1975年7月15日の常議員会で「日本基督教団部落差別問題特別委員会」の設置が決議されました。この特別委員会は発展的に解消して、1981年の「日本基督教団部落解放センター」の誕生に至ります。部落解放センターはこの原点を記念し、7月第二主日を「部落解放祈りの日」として、全国の教会・伝道所に部落解放を初めとしたあらゆる差別からの解放を課題とする礼拝を呼びかけています。
  このような経緯で「部落解放祈りの日」が日本基督教団の暦として正式に定められることになったわけですが、東京府中教会でもこうした部落解放センターの呼びかけに応えて毎年この日に特別の礼拝を行っています。部落差別問題を初め、あらゆる差別からの解放が祈りの課題とされ、差別の問題に切り込む説教や聖書研究が為されて、あらゆる差別に立ち向かう教会生活への奨めが為されているわけです。願わくは、神様が今日のこの礼拝を祝してくださって、私たちが差別の問題に立ち向かっていくためのよき知恵を与えてくださいますように、そうしてこの世界からあらゆる差別が無くなりますようにお祈りしています。
  さて、そんな今日は聖書の中からヨハネによる福音書9:1〜3を取り上げさせていただきました。ここには、「生まれつき目の見えない人」が出てきます。イエス様の弟子たちがこの人を見かけた時、弟子たちはイエス様にこう尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
  この言葉から窺えるように、当時の社会では、病気や障がいは罪の結果起こるのだと考えられていたのです。「本人、あるいはその人の先祖が何らかの罪を犯し、神様から裁きを受けてそのようになっている」。当時の社会では、そう考えられていました。ですから、イエス様の時代、病人や障がい者はこうした心無い業論によって「罪人」として差別され、社会の片隅に追いやられていたのです。今日の聖書個所の後の個所には、この「生まれつき目の見えない人」が「物乞いをしていた」と記されていますが、ここからは差別され、社会の片隅に追いやられていた当時の障がい者の悲惨な状況が見て取れます。
  しかし、イエス様は今日の聖書個所で、当時病人や障がい者を社会の片隅に追いやっていた業論そのものを否定されました。弟子たちの問いに対し、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」、そのように言って、その後、この「生まれつき目の見えない人」を癒されたのです。そして、この人が社会復帰できるようにされました。
  目が見えず、差別されていた人に対して、それは本人、あるいは両親が罪を犯したからだろうと、つまりは本人の問題であると考えていた弟子たち。その考え方をはっきりと否定し、「神の業がこの人に現れるため」だと言ってこの人を癒されたイエス様。このお話から私が思うのは、差別の問題を、本人の問題、差別される側の問題と捉える考え方が無関心につながってしまうということです。
  弟子たちを含め、当時の人々は、障がい者が差別され、苦しんでいるのを目の当たりにしていました。でも、誰もそれを自分の責任とは考えていませんでした。障がい者がそのように苦しむのは、その人の問題だ。まさに差別の責任は差別される側にあるという考えです。そこから生まれるのは、「自分とは関係がない」という思い、あるいは「そんな人になぜ自分が関わらないといけないのか。関わるのはやめておこう」という思いに他なりません。
  しかし、イエス様は「この人が障がいを抱えているのは、神の業がこの人に現れるためである」と、つまり「障がい者には神の栄光が現れなければならないのだ」と言って、この人に関わり、この人を癒されたのです。それは同時に、この人をこんな状況に追いやっているのは自分たちなのだと気付いて、すなわち差別の問題を差別している自分たちの問題として捉えて、これを解決するために関わっていきなさいという弟子たちに対する呼びかけでもあったことでしょう。
  くしくも今年は水平社創立100周年という節目の年になります。近代以前には、「エタ・非人」などと呼ばれた人たちが社会の外側に置かれていました。明治政府は1871年に『賤民廃止令』、いわゆる『解放令』というものを出し、こうした被差別身分を廃止しましたが、社会には変わらず厳しい差別が残ったのです。そんな差別に苦しんだ若者たちが、ちょうど100年前に立ち上げたのが水平社です。そしてそこには、今日の聖書個所でイエス様が示唆されたように、差別はされる側の問題なのではない、差別をする側の意識を変えていかなければならないのだという思いがありました。
  今年3月、NHKの『バリバラ』という番組で、「水平社宣言100年」という特集が報道されていたのをご存じでしょうか。そこでは水平社ができた経緯として、1918年に起きた米騒動から説明されていました。米騒動とは、1918年に米の価格が暴騰したことを背景に起きた騒動です。ここに被差別部落からも多くの人たちが参加しました。京都の米騒動は生活に困った女性たちが、有力者から寄付された米の配布券を求めて交番に押しかけたのがきっかけだったのですが、この事件では軍隊が出動し、多くの部落の住民が逮捕されたのです。新聞や雑誌は騒動が過激になった背景には「部落民の気質」があると差別的に報じました。「部落の住民の中には牛馬などの屠殺を仕事とするものが少なくない。その性質は粗暴で、ややもすれば残忍になる傾向がある」など、部落民に対する偏った差別的な報道が相次いだのです。
  地元の歴史を研究してきた山内政夫さんは、「食えないのにね。米が欲しいのに、弾圧も厳しかったわけですよ。部落民だからそういうことをするというレッテルが貼られてしまいましたからね。有罪も続き、非常に傷跡が残った。自然発生的にできた集まりでは限界があった」と語ります。
  警察や行政もこの米騒動をきっかけに部落対策が必要だと考えるようになりました。しかし、その多くは世間から同情してもらえるように、部落の側に「言葉遣いや振る舞いを正せ」と説くものでした。部落の人々が差別されるのは、部落の人々に問題がある。部落の人々が問題を正して世間から同情してもらえれば差別もなくなって、部落の人々が問題を起こさなくなって治安が良くなるだろうという、非常にひどい理屈です。
  これに対し、関西を始め各地の青年たちは、「差別されているものがなぜ卑屈にならなければいけないのか、世間の同情を求めるのではなく、自分たちの力で差別と闘うべきではないか」と考えて、水平社の母体となる集まりを作りました。そして、その理念をめぐって何度も議論を重ね、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で有名な水平社宣言が書き上げられたのです。この宣言は、被差別マイノリティーが発信したものとしては世界で初の人権宣言となりました。
  こうした水平社創立の時代背景について、フリーライターの角岡伸彦さんは『バリバラ』の中でこのように語っておられました。「水平社か゛て゛きる前後て゛は、行政や部落の中から部落改善運動とか、同情融和運動というのか゛あった。これは要するに部落民か゛品行方正になれは゛、差別は無くなるんし゛ゃないか、という運動なんて゛すね」。さらに同じ番組の中で、部落女性の歴史を研究しておられる宮前千雅子さんも水平社創立の意義についてこのように語っておられました。「水平社か゛て゛きる前は、差別の責任は差別される側にある、というように、部落の人の多くも思っていた。て゛も水平社は、差別した人に抗議して、改めさせることによって差別を克服していこうとした。水平社の存在は、差別されることが当たり前だった時代に、視点を大きく変え、泣き寝入り状態た゛ったものを、声をあけ゛ていいんだと思わせた」。
  こうしたお二人の意見に窺えるように、水平社の創立、また水平社宣言というものは、まさに差別というものを、差別される側の問題としてではなく、差別する側の問題として捉える、マイノリティー当事者による運動の先駆けだったのです。であるならば、私たちは「水平社は部落の人たちが立ち上げたもので、水平社宣言は部落の人たちが書き上げたものだから、自分たちとは関係がないわ」という意識ではなく、自分たちが問われている運動として水平社の創立、また水平社宣言を捉えていかなければなりません。これらを通して、皆がどうやったら暮らしやすい、生きやすい世の中になっていくかということを、自分たちの問題として考えていかなければならないのです。
  ここで今の私たちの社会を振り返ってみれば、苦しむ者がいる問題をその人の問題として捉える、そのような考えがそこかしこに見受けられます。差別の問題然り、いじめの問題然り。ある学校ではいじめの問題があって、いじめる人々を注意するどころか、いじめられている人がどこを直し、どのようにすればいじめられなくなるのか、そのいじめられている人も含めてクラス全員に書かせた、そして結局そのいじめに悩んでいた人が自殺してしまったという事件があったそうですが、本当にこれはひどい話です。このように苦しむ者がいる問題を、苦しんでいるその人の問題として捉える考え方は、苦しむ者をさらに追い詰め、死にまで追いやってしまうのです。
  「それはその人の問題だ。自分とは関係がないわ」。そんな考え方でどうしてこの世界に神様の栄光が現れていくでしょうか。苦しむ者の問題を他でもない自分の問題として捉え、関わっていく。無関心から解き放たれていく。そのような考え方を、今日の聖書個所から、また水平社運動、水平社宣言から学んでいきたいと願います。
  願わくは主が私たち教会の宣教の業を祝福し、主の御心をどこまでも広く宣べ伝えていくことができますように。苦しむ者の問題を自分の問題として捉える、そうした当事者意識をこの世界に広く浸透させて、すべての苦しむ者に神様の栄光が現れる、そんな世界を皆で一緒に実現させていきましょう。

             お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 

 
 
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