2022年 7月31日(日) 聖霊降臨節・第9主日 礼拝説教
 

「新しく生まれるには」
  ヨハネによる福音書 3章 1〜8節  
北村 智史

  7月も最後の日になりました。暑い日が続いています。新型コロナも感染が爆発しています。そんな中、皆さんお元気にお過ごしでしょうか。子どもたちは夏休みを過ごしていることと思いますが、一人ひとりの心身の健康が守られますように、そして子どもたちが神様の愛とお守りの下、豊かに育まれますようにお祈りしています。
  さて、そんな今日は聖書の中からヨハネによる福音書3:1〜8を取り上げさせていただきました。ここには、ニコデモという人が出てきます。この人は、ユダヤ人の中でも律法という神様の掟を厳しく守っていたファリサイ派というグループに属していた人で、しかもユダヤ人たちの議員をしていた人物でした。ユダヤ人の中でもお偉いさんで、リーダー的な存在だったわけです。
  そんな彼は、夜にこっそりと人目を避けてイエス様に会いに来ました。実はニコデモさんはイエス様が色々な奇跡を起こされるのを目の当たりにしたか聞いたりして、イエス様のことをメシア(=救い主)だと信じていたんですね。けれども、ユダヤ人の指導者の中にはイエス様をメシアだと信じない人もたくさんいたので、「自分はイエス様のことを信じていると他の人に知られたくない」、そう思ってこっそりと夜にイエス様に会いに来たのでした。
  ニコデモさんは言います。「イエス様、私はあなたを信じていますよ」と。でも、イエス様は、ニコデモさんの信仰が、奇跡というしるしが見えているから、つまり信じるのに都合の良い恵みが見えているから信じるというものに過ぎないこと、それゆえ辛いこと、不幸なことがあった時には途端にイエス様のことが信じられなくなってしまうような、そんな弱いものに過ぎないことを見抜いておられました。
  そんなニコデモさんに、イエス様は言われます。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。「そんな自分に都合が良いことがあるから信じるというようなことではだめだ。(イエス様の時代も洗礼というのはありましたが、) 水による洗礼を受け、聖霊も受けて、罪深い自分が根本から変えられなければ、人は神の国で永遠の命に与ることはできないんだよ」とイエス様は仰ったのです。
  イエス様がニコデモさんに言われたことは、今の私たちにも言われていることだと思います。私たちも都合の良い恵みをいただけるならイエス様のことを信じる。そうでなければ信じないというようなことではなく、ただイエス様の十字架の贖いを信じて洗礼を受け、聖霊を受けて、罪深い自分を根本から変えていただいて神様の救いに与っていくのです。信じるということにおいては、何か恵みをいただけるかどうかということよりも、自分が新しく生まれ変わるということの方が大切だということです。
  クリスチャンというのは、皆新しく生まれ変わった人に他なりません。神様の愛を受けてこの世界から教会に招かれて、洗礼という儀式を受けて、罪を持った古い自分に死に、神様の下にある新しい命、新しい自分に生まれ変わった人のことを言うのです。
  覚えておきたいのは、クリスチャンが新しく生まれ変わるのは、洗礼の時だけでは決してないということでしょう。神様に従っていく決意をするということで、クリスチャンは洗礼の時に決定的に生まれ変わりますが、クリスチャンの生まれ変わりはその時だけでないのです。クリスチャンは普段の生活の中で神様の愛を受けることを通して、日々新しく生まれ変わっていく存在です。
  しかし、ここで実際のクリスチャンの在り様を振り返ってみれば、洗礼を受けて新しく生まれ変わったはずの人が、日々の生活の中でまた新たに神様の御心に沿うように変えられるどころか、罪に逆戻りしてしまうことの何と多いことでしょうか。クリスチャンは日々の生活の中で神様の愛を受け、聖霊を受けて日々新しく生まれ変わっていくはずの存在なのに、実際はちっともそんな風になっていない。相変わらず自分のエゴに生きて罪を垂れ流しながら生きている。そんな人がたくさんです。
  それは「ありがとう」の心と「ごめんなさい」の心が足りないからだと私は思います。「神様、ありがとう」と、普段いただいている神様の恵みに感謝する気持ち。「神様、ごめんなさい」と、普段の生活の中で自分の罪を認めて神様に謝る気持ち。この二つの気持ちあってこそ、聖霊が豊かに働いて私たちは日々神様に自分を変えていただくことができるのでしょう。
  神様に対しても、人に対しても、「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えない人はだめだと思います。自分自身を振り返ってみて、神様に、また人に、いつも「ありがとう」と「ごめんなさい」を言っているでしょうか。感謝することも少なく、意地を張って自分の罪も認めずに生きているなら、聖霊も働く余地がありません。日々新しく生まれ変わるなど夢のまた夢で、人間としての成長もないでしょう。
  教会は神様の愛の輪を広げていくために、まだ洗礼を受けていない人に受洗を勧めていきますが、それがゴールと言いますか、洗礼を授けたらそれでその人に対する宣教の使命が終わるというのでは決してありません。その人が神様の愛を受けて日々生まれ変わり、救いに与るまでの一生に対して責任を負います。ですから、洗礼を受けてくれる人が現れることを願うのはもちろんのこと、そうした人たちもどんどんと加えて、日々教会員の仲間と共に、「ありがとう」の心、「ごめんなさい」の心を大切にしながら、神様の愛を受けて新しく生まれ変わっていきたいと願います。神様、イエス様を中心に、日々新たな人生を皆で一緒に歩んで参りましょう。
          お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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