2022年 8月 7日(日) 聖霊降臨節・第10主日 礼拝説教
 

「世の中、殺人を正当化しすぎではないか?」
  出エジプト記 20章 13節  
北村 智史

  今年は「沖縄施政権返還 50 周年」の記念の年です。沖縄戦を心に刻む6月23日の「沖縄慰霊の日」には、NCC(日本キリスト教協議会)では「沖縄施政権返還 50 年となる今年、『6 月 23 日“沖縄慰霊の日”』に平和を仰ぐ」と題した声明を発表しました。そこでは、沖縄がこれまで受けてきた苦難の歴史について、次のように述べられています。
  「沖縄の歴史を振り返れば、その苦難の歴史は 1609 年の薩摩藩による琉球支配に始まりました。日本の明治維新以降、琉球は沖縄県として強制併合されました。1941 年に始まった日本の対米戦争が敗戦を避けられなくなる中、大本営は第 32 軍を沖縄に送り、降伏後の対米交渉を少しでも有利に運ぶ目論見から戦略的持久戦の拠点として沖縄を位置づけました。その結果、沖縄を住民もろとも“鉄の暴風”と呼ばれた米軍攻撃にさらすことになりました。さらに米軍上陸後、日本軍と共に沖縄本島南部に追い詰められた住民は、日本軍に守られるどころか、むしろ人間の盾とされ、遂には強制集団死を強いられる悲惨な道へと追い込まれました。
  日本の敗戦後、サンフランシスコ講和条約による日本独立の代償として再び『米軍の領地』として切り捨てられた沖縄は、ようやく 1972 年 5 月に『本土復帰』し、施政権の返還がなされました。ただし、日本国憲法と日米安保条約、そして日米地位協定の下になされた『復帰』も『施政権返還』も、沖縄にとってさらなる茨の道、矛盾を背負い込ませる道となりました。沖縄戦の悲惨な傷が癒されず、結局、在日米軍の 70%以上を集中的に背負わされる、これが『本土復帰』『施政権返還』の現実でした。」
  そして、声明ではさらに続けてこのように述べられています。
 「1952 年 4 月に主権を回復したはずの日本政府は、日本国憲法の下で少なくとも二つの大きな過ちを犯しました。
  第一は、1947 年 9 月に、憲法上、政治行動のゆるされなかった裕仁天皇が、米軍が沖縄/琉球列島に長期占領を続けることを要請するメッセージを、マッカーサー元帥に送ったことです。沖縄は、天皇の名によって対米戦争の捨て石とされ、戦後には憲法規定を逸脱した天皇の要請によって在日米軍基地の沖縄への長期設置を正当化する理由を与えてしまったのです。
  第二に、大部分の在日米軍基地が集中させられた沖縄を、米国が起こしたベトナム戦争に米軍爆撃機発着地として巻き込ませてしまったことです。『日本本土』は、憲法 9 条において戦争放棄を謳いながら、この不条理の重荷を沖縄に負わせて、沖縄戦の悲しみにさらなる苦しみを塗り込んでしまったことの意味を、わたしたちはこれまでどれほど自分の問題としてこれたのでしょうか。
  このことは、日本政府が沖縄を『憲法 9 条の外』に位置づけたことを意味すると同時に、施政権返還後でさえ、日米安保条約と地位協定のもとで例外的な不条理を沖縄に肩代わりさせてきた日本の戦後“平和”の欺瞞性と沖縄に対する差別性が鋭く問われているといえます。」
  こうしたNCCの声明を読んで、私は改めて今の世界情勢と日本の安全保障の在り方を考えさせられました。今年の2月にロシアがウクライナに侵攻し、戦争が続く中、私たち日本に求められているのは、憲法 9 条を持つ国として、世界の緊張と対立を緩和し、そして決して戦争が起こらぬよう、武力に依らない平和外交の叡知を絞り出すことではないでしょうか。にもかかわらず日本政府は、日本を含む東北アジアにおける緊張と対立を緩和する、武力に依らない平和外交の叡智を絞り出すこととはまさに正反対のことをしようとしています。“台湾/尖閣有事”に対する危機感、またロシアの脅威などを国民に煽り、「核共有」の議論を持ち出したり、今後「5年以内」に GDP2%以上の防衛費増額を目指したりして、ひたすら軍事大国化の道をばく進しようとしているのです。それは、沖縄をはじめとする南西諸島(琉球弧)を今まで以上に一触即発の戦火の危機にさらしていくことになるでしょう。
  そのような中にあって、平和聖日の今日、改めて平和について、また沖縄について思いを馳せ、自らの在り様をしっかりと悔い改めて、真実の平和を求める叫びを挙げ続ける沖縄の人々の声に耳を傾けていきたい、そして、二度と血を流さぬように平和を目指そうとする沖縄の闘いに連帯していきたいと願います。
  さて、そんな今日は聖書の中から十戒の第6戒を取り上げさせていただきました。出エジプト記20:13です。ここには神様から与えられた10の掟の一つとしてこんな言葉が記されています。「殺してはならない」。この第6戒の掟について、この掟ほどすべての人が同意できる戒めはないと言われることがあります。確かにこの戒めに対して、「それはおかしい」と異議を唱える人は少ないでしょう。
  しかし、ではなぜ「殺してはならないのか」と聞かれると、それを説明するのは意外に難しいと言いますか、簡単なことではありません。たとえば「人間は自分も、自分の愛する人たちも殺されたくないでしょう。だからあなたも殺してはいけないのです」とか言ったとしても、「私には愛する人もいないし、自分自身はいつ死んでも構わないと思っている」と言う人がいれば、それは通用しない理屈になってしまいます。
  なぜ「殺してはならないのか」。その究極的な理由は、神様の存在を前提にしなければ完全な答えとはなりません。なぜ「殺してはならないのか」。それは神様が人間のいのちの所有者だからです。私たちは自分で自分のいのちを所有しているのではありません。私たちキリスト者は、自分のいのちは自分を造り、自分を神様との交わりの中に置いてくださる神様が所有しておられると信じます。その意味で「殺す」ということは、神様の所有を犯すことを意味します。
  また、いのちの所有者、管理者が神様であるならば、その生殺与奪は神様のみがなさる業です。その意味で「殺す」ということは、自らを神様と等しい位置に置くことに他なりません。まさに殺人は人間を神様のポジションに立たしめる冒涜的な行為であり、許されざる行いです。
  さらに言うならば、殺人は神様御自身の性格に真っ向から反する行為に他なりません。罪を犯したアダムとエバをエデンの園から追放し、御自分との交わりを断たれた神様。しかし、その神様はその一方でなおアダムとエバの霊的ないのちの回復を願い、「死なないように」皮の衣を着させ、御自分とのいのちの交わりの回復を望み続けられました。また神様は御自分の愛する独り子イエス・キリスト御自身のいのちをもって、いのちがけで人が神様とのいのちある交わりを回復し、その交わりに生きられるようになさいました。神様の御性質、それは人を生かそう、生かそうとなさるものであり、神様はまさにいのちの回復者に他なりません。
  しかし、殺人はこの肉体的ないのちを奪い取ります。そして、この地上で神様が為そうとされた霊的ないのちの回復の道を閉ざします。十戒の第6戒の違反は、我が子キリストの生命をかけてまで為そうとされたいのちの回復を真っ向から否定するという、神様を悲しませる行為であることは言うまでもありません。
  だからこそ、私たちは「殺してはならない」わけですが、では人間はこの戒めをきちんと守ってきたのでしょうか。その答えは、人間の歴史を振り返れば自ずと分かります。この歴史の中で、いったいどれほどの人が殺されてしまったことでしょう。今も、世界では至る所で犯罪があり、死刑があり、また戦争や紛争が続けられ、多くの人が殺されています。人間の歴史、それは殺人の歴史と言っても過言ではありません。私たちの歴史は殺されて呻く多くの人の屍で満ち溢れています。
  何よりも罪深いと思うのは、神様から「殺してはならない」という掟を与えられたにもかかわらず、私たち人間がそこに様々な解釈を加え、色々な例外を設けて、ある種の殺人を正当化してきたことです。かのキング牧師は「良き隣人であること」というタイトルの説教の中でこんな事実を指摘しています。「旧約聖書時代初期の神は部族の神で、その倫理も部族的であった。『あなたは殺してはならない』は、『あなたは、同胞のイスラエル人を殺してはならない。しかし、神のためにペリシテ人は殺せ』ということを意味する」。これは本当にその通りで、それが旧約聖書時代初期の人々の十戒の第6戒に対する解釈だったわけです。
  では、新約時代の神の民である教会はどうかと言うと、この第6戒に対して実に様々な解釈をし、歴史的に教会の立場を大きく分けてきました。たとえば、第6戒で用いられている「殺す」という言葉は、その他で用いられてる「殺害する」、「殺す」と訳されている言葉とは違い、「故意の殺人」の際に用いられるものだ、したがって「戦争による敵の殺戮」や「神の裁きの下に服した人間の死」には用いられていないのだという立場、研究があります。そこでは、第6戒の「殺してはならない」は故意の個人的な殺人の禁止を意味するのであって、戦争の禁止や国家における死刑の禁止を言っているのではないという主張が為されます。また、旧約聖書では戦争が神様の命令によって為されていた記事を根拠に挙げて、この第6戒の「殺してはならない」はある限定性を帯びていると考えられました。そして、殺すことも可能にする「正義の戦争」という思想がキリスト教会の中に生まれてきたのです。
  この正義の戦争の概念は、ローマ帝国の中でキリスト教が国教化され、国と宗教が結び付いた4世紀頃から既に生まれ、今に至るまで主張し続けられてきました。正義の戦争は、「正しい原因」で「正しい意図」を持ち、「適切な方法」で、「正当な当局」が行い、財産が考慮され、非戦闘員には攻撃しないという条件を満たせば認められるとされてきたのです。
  しかし、立ち止まって考えないといけないのは、その「正しさ」をいったい誰が判断するのかということです。戦争を行ういずれの国においても自国の正義を必ず謳います。かつて「適切な方法」とされた残虐な兵器は数知れずあります。世界中の戦地で、戦闘員も非戦闘員も次々と殺されていっています。正当な当局も、正しい意図も、奪われない財産なども一度戦争が始まればどこにもありません。
  アメリカの政治哲学者マイケル・ウォルツァーは過去に起こった戦争を一つひとつ検証し、正戦論(正義の戦争)の条件を満たした戦争は過去に一つもなかったということを論証しましたが、にもかかわらず、今も戦争は繰り返され、そこでは強引に「自分たちは正義の戦争の条件を満たした」と、自国の正義が謳われるのです。
  今、ロシアとウクライナの間で世界中を巻き込んで戦争が続けられていますが、私たちはそこで、国家によって正義がどのように捏造されるのかを目の当たりにしてきました。都合よく情報は捻じ曲げられ、自国に都合の良い理屈ばかりが主張されて、あれほどの殺人、あれほどの不正義が正当化されるのです。
  今から一月半ほど前だったでしょうか、NHKの番組でチャップリンの特集が放映されていましたが、『殺人狂時代』という映画で彼が語ったこのような有名なセリフが私の印象に残りました。「1人を殺せば犯罪者だが、100万人殺すと英雄になる。数が殺人を正当化するのだ」。チャップリンのこのセリフは、核戦略を推し進めようとしていた当時のアメリカに対する痛烈な批判となったようですが、にもかかわらず、アメリカでは今も広島・長崎の原爆投下、あれほどの大量虐殺を、戦争を早く終結させて多くの命を救うための正義の行いだったとする解釈が広く行き渡っています。そして世界では核武装が止むことなく、今まさに人類滅亡の脅威を与え続けている。
  こうしたことを思うにつけ、考えさせられます。世の中、殺人を正当化しすぎではないかと。死刑の問題、安楽死の問題、堕胎の問題、正当防衛の問題、そうしたことが取り上げられて、ギリギリのところでこれは許されるのかどうかということが真剣に論じられるというよりも、そうした理屈を恣意的に用いて自分たちの殺人をどんどんと正当化していこうとする、そしてどんどんと許される殺人の範囲を自分たちに都合よく広げていこうとする力が働いているのを、私はこの世界から感じるのです。
  そのような中にあって、私たちは改めてイエス様の御心に立ち返らなくてはなりません。マタイによる福音書5:21〜22で、イエス様は十戒の第6戒の掟についてこのように解釈されました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。
  このようにイエス様が殺人の禁止だけでなく、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と、憎しみを抱くことまでも第6戒の射程に含めておられることを私たちは肝に銘じなければなりません。第6戒が「腹を立てることの禁止」まで含まれるのに、どうして国家の「戦争による殺人」が都合よく許容されるでしょうか。
  私たちは本当に罪人で、自分たちの都合で人を殺し、それを都合よく正当化します。こうした罪が私たちの歴史には繰り返し現れてきましたし、今も私たちの世界に溢れ返っています。その罪を、このイエス・キリストの言葉を前にしっかりと悔い改めていきましょう。そして、憎しみ合い、殺し合う世界から、愛し合い、生かし合う世界へと、この世界を変えていきたいと願います。
                
              
祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
Copyright© 2009 Tokyo Fuchu Christ Church All Rights Reserved.