2022年 8月 28日(日) 聖霊降臨節・第13主日 礼拝説教
 

「怒りを愛に」
  マタイによる福音書 5章 5節  
北村 智史

  昨日はzoomで、「平和の集い」という子どもの教会のイベントを行いました。平和をテーマにした礼拝を神様にお捧げし、谷川俊太郎さんの『へいわとせんそう』という絵本を皆で読んで感想を述べ合い、子どもたち皆で平和の祈りを作りました。この祈りはまた教会の月報『泉』に掲載されますので、お読みいただければ幸いです。その後、皆でzoomでもできるゲームなどをしたりして交わりの時を持ちました。コロナのためになかなか子どもたちと顔を合わせられませんでしたが、昨日は久しぶりに子どもたちの元気な姿を画面で見ることができて、嬉しかったです。まだまだコロナは続きますが、子どもたちの健康と生活がこれからも守られますように、神様にお祈りしています。
  さて、昨日の「平和の集い」では、マタイによる福音書5:9の御言葉、すなわち「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」というイエス様の言葉を主題聖句といたしました。そして、今日はマタイによる福音書の5:5のイエス様の御言葉を取り上げます。マタイによる福音書の5:1〜12に載っているイエス様のこれらの教えは「山上の垂訓」と呼ばれています。
  イエス様は山の上でお弟子さんたちに、また集まってきた人々に、色々な人々の幸いについて教えられました。たとえば、3節でイエス様は「心の貧しい人々は、幸いである」と仰っておられます。また次の4節では、「悲しむ人々は、幸いである」と仰っておられます。これを普通に考えたならば、「ええ、なんで『心の貧しい人々』、『悲しむ人々』が幸いなの」と思ってしまいますが、これはイエス様が来られたことによって、こうした人々が真っ先に幸いになる「神の国」がもうすぐやって来ますよということなんですね。
  実際、イエス様は希望が見えなくて惨めな思いに打ちひしがれている人々、押さえても押さえても涙が出てきて、隠すことができないくらい心に痛みを感じている人々、こうした人々の所にやって来られて、彼らを救おう救おうと懸命に働かれました。そのイエス様は、今も私たちと一緒にいてくださっていて、打ちひしがれている時も、悲しい時も、その先に希望の光が見えてくるまで私たち一人一人を支えて、見守ってくれています。そのことを、私たち、忘れないでおこうと思います。
  で、今日の御言葉なのですが、イエス様はどういう人々に幸いだと仰られたでしょうか。そう、「柔和な人々」です。子どもたちは「柔和」って分かるでしょうか。ちょっと難しい言葉かもしれません。なので、少し調べてきました。「柔和」というのは、人への態度がものやわらかで優しいことを言うそうです。つまり怒ったりしない、丁寧で穏やかな人です。では、イエス様は今日の聖書個所で、ただ単純にこういう人々を幸せだって祝福しただけだったのでしょうか。私は、実はそうではなかったのではないかと思います。
  この「柔和」と訳されている言葉、実は聖書が書かれたギリシャ語では、「ああ、自分は神様に支えられて生きているんだな」ということを知って謙虚な気持ちになり、みんなに幸せであって欲しいと願っておられる神様のその御心が成るように人に優しくする、人を愛するという、そういう態度を意味する言葉なのだそうです。つまり、決して怒らないという、そういう意味ではなかったんですね。
  で、私はここである人物を紹介したいと思います。皆さんはこの人が誰だか知っていますか。 ――キング牧師の紙を貼る―― この人はキング牧師と言って、非常に有名な人です。
  子どもたちは人種差別というのを知っているでしょうか。世界には白人の人もいれば、黒人の人もいるし、日本人みたいに肌の色が黄色い人もいます。こうした肌の色の違いで人を理不尽に差別するのを人種差別と言います。で、今もこうした人種差別は世界中の至る所で存在していますが、昔のアメリカではこうしたひどい人種差別が当たり前のように行われていました。たとえば、この絵、何をしている絵か分かるでしょうか。 ――絵を見せて会衆に聞く―― これは、黒人の男性が水を飲んでいる絵なのですが、実はこの黒人の人が水を飲んでいる水飲み場は黒人の人専用の水飲み場なのです。つまり、あなたたち黒人は白人の人と一緒に水を飲んではいけませんよ、あなたたちはここで水を飲みなさいと差別されている、そういう絵なのです。こういうふうに今から50年前、60年前のアメリカでは、学校もトイレもプールもバスの席も白人の人はこっち、そうでない人はこっちというふうに法律で分けられることが決められていて、差別が堂々と行われていました。
  で、このキング牧師はそれはおかしいと怒って、こうした人種差別を無くすために、ここが大事なのですが、まったく暴力を用いずに大きな運動を続けて、さっき言ったような人を差別する法律を無くして、その後も、理不尽な人種差別を無くしていくために1968年に殺されてしまうまで闘い続けました。
  イエス様が生きておられた時代にも差別があって、またそれ以外にも様々な理不尽なことがあって、希望が見えずに惨めな思いをして打ちひしがれている人々、押さえても押さえても涙が出てきて、隠すことができないくらい心に痛みを感じている人々が大勢いました。こうした状況を前にして、イエス様は何もお怒りにならなかったのでしょうか。何もされなかったのでしょうか。 ――会衆に聞く―― 違いますよね。イエス様はこうした状況にお怒りになって、差別したり人々を抑えつけて苦しめたりしていた人々に「それは違う、おかしい」と、決して暴力を用いることをしないで闘い続けられたのです。
  ニュースを見ても、私たちのごく身近な日常を振り返ってみてもすぐに気づかされるけれど、今でもいじめがあったり、差別があったり、理不尽なことというのはたくさんあります。怒ったりしないで、丁寧で穏やかに過ごすことができたなら、それはもちろんとても幸せなことです。でも、理不尽なことを前にして、自分と同じように神様が大事に思ってくださっている人が苦しんでいたら、暴力を用いることはしないで、怒ること、「それは違うよ、間違ってるよ」と勇気を出して声を挙げていくこともとても大切です。大事なのは、その怒りを愛に変えることです。イエス様もキング牧師も、差別など、理不尽なことに対して怒りましたが、理不尽なことをする人を愛しました。理不尽なことをする人だから滅びてしまえというのではなく、例えば差別する人も、その差別から解き放たれて変わってほしい、救われて欲しい、そう願って行動されたのです。苦しむ者に神様の御心が成るように愛する、それはもちろんの事、人を苦しめる人も変えられて神様の御心が成るように、愛という意志の力によって行動されました。
  「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。イエス様がこのように幸いだと仰られたのは、まさにそのように行動する人々のことではないでしょうか。神様に愛されている者として、謙虚に神様の御心が成るように人を愛する、そこにはそうした意味合いも間違いなく含まれていると私は思うのです。「柔和」という言葉が持つ広い射程と言いますか、深い意味合いを、私たち、しっかりと心に留めておきましょう。
  神様は、いつも皆に幸せであって欲しいと心から願っておられます。その御心が実現するように、豊かに人を愛していきましょう。時には理不尽なことに対して怒り、勇気を出して「それはおかしい。間違っている」と声を上げていきましょう。そして、愛を持って間違いを正していきたい、そしてこの地を神様が望まれる御国に変えていきたいと願います。
                祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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