2022年 9月 4日(日) 聖霊降臨節・第14主日 礼拝説教
 

「みんなで荷物を持ち合おう」
  マルコによる福音書 10章23〜31節  
北村 智史

 今日は聖霊降臨節第14主日の礼拝を神様にお捧げしています。この聖霊降臨節というシーズンは、ペンテコステからアドベントまでおよそ半年間続く長いシーズンで、「教会の半年」とも呼ばれています。このシーズンは教会が聖霊の導きのもと、宣教に励む期間とされていまして、まさに教会の働きがテーマとなるわけです。礼拝で読まれる聖書個所も使徒言行録や新約の様々な手紙などが多くなって参りますが、今日はあえてマルコによる福音書10:23〜31を聖書個所に取り上げさせていただきました。この個所から、教会という群れがどのような群れであるのか、大切な示唆が与えられると思ったからです。
  このマルコによる福音書10:23〜31は、私たちが持っている『新共同訳聖書』という聖書で「金持ちの男」と小見出しが打たれているお話の後半の部分です。では、前半の部分ではどんなことが書かれていたか、少し簡単に見ておきましょう。
  あるお金持ちの青年がイエス様に「先生、わたしは子どもの頃から盗んだり嘘をついたりしてきませんでした。悪いことはせずに、お父さんお母さんを大切にして、ちゃんと善い子にしてきました。私が神様に救ってもらうには、これ以上何をすればいいですか?」と聞いてきました。これに対してイエス様は、「持っている物を全部売り払って、貧しい人々に施しなさい」と言われました。無茶なお願いです。イエス様はこんな風にわざと無茶なことを言って、「自分の行い、自分の力で救われようとしても限界があるでしょ」ということをこの青年に伝えたかったのです。「そんな風に自分の力で救われようとするのではなく、神様に依り頼みなさい」。これがイエス様のメッセージでした。
  また、イエス様は青年に「天に富を積みなさい」とお答えになりました。これは「いやいや、あなたはもう既に神様に救われているんですよ。だから、自分の財産、お金とかお家とか宝石とか、そうしたものに囚われたり、自分が救われようとすることばかり考えたりしないで、他の人に尽くして神様に喜ばれる生き方をしなさい」ということだったのです。
  で、今日のお話なのですが、先程のお金持ちの青年はイエス様の仰ることが理解できたのでしょうか。できなかったんですね。「天に富を積むって何?イエス様、何を仰っているんだろう?せっかく築いた自分の財産を、何で他の人たちにあげないといけないの?」と、結局は自分の持っている財産に心を囚われて、この人はイエス様の仰っていることが理解できずに、がっかりして帰っていきました。
  それでイエス様は「金持ちが神の国に入るのは難しいな。大きならくだが小さな針の穴を通るよりも難しい」と嘆かれたのですが、では、イエス様のお弟子さんたちはどうだったのでしょう。彼らはイエス様が仰ったことをきちんと理解できていたのでしょうか。
  今日のお話を読む限りでは、やっぱりお弟子さんたちもイエス様の仰ったことを理解できていなかったんだと思います。イエス様のお弟子さんたちはこの時、「イエス様についていったら、きっとイエス様はえらい王様になって、自分たちもえらい人にしてもらえる。お金持ちにもしてもらえる。そうやって神様に祝福されて自分たちは救われるんだ」と考えていました。だからイエス様がさっきみたいに嘆かれるのを聞いて、「ええ、今あんなにお金持ちになってて、神様に祝福されているように見える人でも救われないの?じゃあいったい誰が救われるんだろう」とびっくりしたんです。
  こうしたお弟子さんたちにイエス様は、「いやいや、あなたたちはみんなそのままで神様に愛されているんですよ、救われているんですよ。だから、えらい人になったり、お金持ちになったりして自分が、自分一人が救われよう、救われようって必死になるのではなくて、自分は本当に救われるのだろうかと不安に思うのでもなくて、また、『自分はこの人より神様に救われる資格あるよ』と競争するのでもなくて、こういうふうにみんなを愛してくださる神様を信じて、神様が喜んでくださるようにお互いに愛し合って、助け合っていかないとだめなんだよ。それが本当に私に従うことなんですよ」とお教えになりました。
  で、イエス様は今も私たちに「神様は私たちをそのままで愛してくださっているんだよ。だからお互いに愛し合おうね、助け合おうね」と教えてくださっています。では、なんでイエス様はこのことを「大事なことだよ。忘れないで」と、みんなに教え続けてくださっているのでしょうか。今日はそれを説明するために、こんなものを持ってきました。  ――リュックを出す――
  これは何でしょうか。そう、リュックです。私たちはみんな心の中にこうしたリュックを持っていて、こうやって背負いながら生きています。で、まだここには何も入っていません。だから、背負おうとしても  ――背負う――  簡単に背負えます。リュックに余裕があって、まだまだ荷物が入る、軽いといううちはいいのですが、たとえば、友達と喧嘩してしまったとか  ――「悩み」というラベルを貼ったペットボトルを入れる――  、ひどいことを言われたとか  ――「悲しみ」というラベルを貼ったペットボトルを入れる――  、明日の礼拝のお話上手くいくかなとか  ――「心配」とラベルを貼ったペットボトルを入れる――  、こういうふうにたくさんリュックに荷物が積み重なってくると、だんだんリュックがいっぱいになって重くなってきて、背負おうとしても「ああ、重い」と、一人では持てなくなってきてしまいます。こういう時には、いくら自分がえらい人であっても、お金をたくさん持っていても、何の役にも立ちません。でも、たとえ一人で背負えない荷物でも、誰かに来てもらって2人でかつげば、荷物は軽くなって持てますよね。これが3人、4人となれば、もっともっと荷物は軽くなるし、そもそもみんなで思いやり合って荷物を荷い合うようになれば、悩みとか悲しみとかいう荷物自体も  ――リュックの中身を出していく――  少なくなってきます。イエス様はみんなにこういう道を歩んでほしくて、みんなに神様の愛と自分の身近な人への愛をずっと教え続けてくださっているのではないかなと私は思います。
  さっきも言ったように、神様はみんなのことを本当に愛してくださっています。だから、神様は普段からみんなが気が付かないうちにみんなの背負っている荷物を  一緒に支えてくださっているし、それだけではなくて、荷物が重そうな人がいたら「一緒に持ってあげて」と私たちに囁いてくださいます。
  教会というのは、神様のもと、皆で荷物を荷い合う群れなんですね。私たちをそのままで愛してくださる神様の愛を信じながら、かつてイエス様がお弟子さんたちにお教えになったように、また今も私たちに一生懸命教えてくださっているように、みんなで荷物を持ち合いながら一緒に歩んでいきましょう。その歩みの中で、神様は喜びに溢れていつも私たちと一緒にいてくださいます。
                祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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