2022年 9月 11日(日) 聖霊降臨節・第15主日 礼拝説教
 

「共に祈る喜び」
  詩編 133編 1節  
北村 智史

  東京府中教会では、毎年9月の第二主日に教会全体修養会を行っています。今年はマタイによる福音書6:9〜13の御言葉を聖書個所にしまして、普段私たちが礼拝の中でも唱えている「主の祈り」について学ぶことにいたしました。いつもでしたら礼拝後に集会を行って、発題と皆による話し合いの時を持つのですが、今年は新型コロナのために、そうした集会は行わず、私が作成した「主の祈り」についてのレジュメを配布して、皆で学んでもらうという形を取っています。せっかくの機会ですから、毎年修養会には参加してこなかった方も、ぜひレジュメをご一読いただいて、信仰の養いの時としていただきたいと思います。願わくは、神様が今年も私たち東京府中教会の修養会を豊かに導いてくださいますように。イエス様が教えてくださった「主の祈り」を学ぶことを通じて、神様から祈りの精神を教えられる有意義な機会を皆で一緒に持って参りましょう。
  さて、そういうわけで、今日は説教の中でも「主の祈り」に関するお話をしようと思うのですが、マタイによる福音書6:9〜13でイエス様が「こう祈りなさい」と仰られた祈りには、「アーメン」という言葉が含まれていません。でも、私たちが毎回礼拝の中で「主の祈り」を唱える時には、必ず最後に「アーメン」と言います。「主の祈り」だけでなく、すべての祈りにも必ず私たちは最後に「アーメン」と言います。それはなぜでしょうか。実は、「アーメン」という言葉には、大きな意味が込められているんですね。今日は主の祈りの最後の言葉、またあらゆる祈りの最後の言葉である「アーメン」という言葉についてお話をしていきましょう。
  この「アーメン」という言葉は、旧約聖書が書かれたヘブライ語で「確かに、真実に」という意味です。つまり、私たちはお祈りで最後に皆で「アーメン」と言うことで、そのお祈りに「ああ、本当にその通りです」と頷いて、お祈りを口にした人だけでなく、皆で神様にそのお祈りをお捧げしているのです。
  教会はこの「アーメン」という言葉をとても大切にしています。なぜでしょうか。それはこの言葉が、神様にお祈りを捧げる皆に、「ああ、自分たちは神様に連なる枝同士であり、深く繋がり合っているんだな」ということを心の底から感じさせてくれるからに他なりません。今日は聖書個所に詩編133:1の御言葉を取り上げさせていただきましたが、まさにこの御言葉に言い表されている恵みと喜びを、私たちは祈りを捧げ、「アーメン」と唱えるたびに実感することができます。
  いつだったか、ケア施設に入っておられるある方をお訪ねした時のことを思い出します。私は牧会者として時々、ご病気やケガで入院したり、ケア施設ですね、年を取って生活するのが難しくなり、色々生活のお世話を受けながら施設の中で暮らしたりしておられる、そのようにしてなかなか教会に来ることができなくなってしまった方々を、「どうしておられるかな」とお訪ねすることがあるのですが、前の教会で一度、夫婦お二人でケア施設に入っておられたけれども、少し前に御主人を亡くされたという方をお訪ねしたことがありました。仮にAさんと言っておきますが、そのAさんは私の顔を見るととても喜んでくれて、「〜〜さんが毎週週報を届けてくれて、それを楽しみに読みながら、日々神様にお祈りしてるんですよ。本当に日々恵まれて感謝しながら生活しています」と、御主人を亡くされてからの日々をどのように過ごしているかを色々とお話ししてくれました。お話の後、Aさんと二人でお祈りしてお別れしたのですが、お祈りして二人で「アーメン」と言ったら、「ああ、本当に嬉しい。今日は本当に神様に感謝」と言って、目に涙を浮かべて喜んでくれました。
  で、私は軽々しく人の気持ちが分かるとか言うのはすごく嫌いなのですが、ただそのAさんのその時のお気持ちについて色々と思うことがあります。私も大学に入る前、何年間かずっと一人で療養しないといけなかったことがあり、よく神様にお祈りしていました。それはそれで、ものすごく神様に支えられて、「ああ、お祈りっていいな」とその恵みに励まされたのですが、大学院の時、父が倒れて、その時友達が一緒に祈ってくれて、苦しい時に神様のもとで自分のことを思ってくれている人がいるというのがひしひしと伝わってきて、「ああ、お祈りというのはこれほど深いんだ」と改めて思い知らされました。
  Aさんの話に戻しますが、私はその時、前の教会に来てからまだ2年と数ヶ月しか経っていなかったので、長い間施設に入っておられたAさんとずっと一緒に人生を歩いてくることができたわけではありません。もちろんAさんの所に行く前にAさんがどういう方なのかと言うのは聞いていましたが、それでもやはりこの方が歩んでこられた人生の重みとか、その時感じていらっしゃった神様の恵みとか、御主人を亡くされた痛み、寂しさとかというのは、本当の意味では分からなかったと思います。私たちには弱さも限界もあるから、目の前の人が抱えている気持ちや痛み、喜びというのをなかなか完全には理解することができません。
  そんな時、私にとって「アーメン」というこの言葉は、分からないから言葉にすると無責任になってしまうけれども、それでも「あなたのことを覚えてる。あなたと一緒に神様の恵みを感じていきたいし、もしも痛みがあるなら一緒に悩んでいきたいと思っている。そんな自分がここにいるんだ」というのを精一杯お伝えすることのできるかけがえのない大切な言葉でした。
  「アーメン」と声を合わせるたびに、「ああ、自分は神様と、そして皆とつながっているんだ」という喜び、恵みを噛み締めて、皆で神様に結ばれた一つの家族になっていくのです。
  イエス様のことを思います。イエス様は、この世界が神様がこうであって欲しいと願う通りにはなっていないことを知っておられました。だから主の祈りでも、神様の御心が私たちの住んでいるこの世界にもなりますようにと祈られたのです。東日本大震災然り、コロナ然り、今年起こった様々な水害然り、私たちの人生には納得のいかない辛いこともたくさん起こってきます。また、私たちは完璧ではないから、分け合えばいいのにそれができなかったり、自分の非を認められずに人を赦せなかったり傷つけたりしてしまって、苦しむこともたくさんあります。でも、どんな時にも「一人じゃないよ。一緒に悩んで乗り越えていこう。弱さも欠けも一緒に背負っていくよ。そして喜びの時には一緒に喜ぼう」と、お祈りを通して呼びかけてくれる仲間、家族がここにあるのだということを、「アーメン」という言葉から私たち、学んでいきたいと思います。我が家と同じく、いつでも教会が皆の帰ってくる場所であり、共に祈り合う仲間がここにいる、共に祈る恵みと喜びがいつもここにあるのだということを忘れないで歩んで行きましょう。その真ん中で、イエス様はいつも私たちを祝福してくださっています。
            お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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