2022年 10月 2日(日) 聖霊降臨節・第18主日 礼拝説教
 

「必要としてくださるお方」
  ヨハネによる福音書 4章1〜15節  
 北村 智史 牧師

  今日は「世界聖餐日」です。「世界聖餐日」というのは、毎年10月の最初の日曜日に守られている記念日でして、この日には世界中の信徒が、「私たちは皆、イエス様を通して神様に愛されているんだよ」ということを確認しながら聖餐式という儀式に与ることになっています。
  聖餐式というのは、イエス様の十字架のことを思いながら皆で一緒にパンと葡萄酒に与る儀式のことです。イエス様の十字架を思う時、私たちは皆イエス様の尊い犠牲によって贖われた存在、大切な命であることが分かります。でも、今世界を振り返ってみれば、イエス様に贖われた者同士が争い、殺し合い、大切な命を奪い合っている悲惨な現実が目に留まります。
  今日は新型コロナのために、感染予防という観点から聖餐式を行いませんけれども、それでもイエス様が十字架を荷って下さって私たちを救って下さったその犠牲を思いながら、私たちはそれほどのイエス様の愛に結ばれて一つなのだ、そして皆が皆、失われてはならない大切な命なのだということを確認しながら過ごしていきたいと願います。そして、世界が平和になるように、世界中の人と心を一つにして祈りたいと存じます。
  さて、そんな今日は聖書の中からヨハネによる福音書4:1〜15を取り上げさせていただきました。イエス様とサマリアの女性とのやり取りが記された場面です。これを読みますと、この女性は正午頃に井戸に水を汲みに来て、イエス様と出会ったのでした。
  しかし、イエス様が生きておられた当時の状況を知れば、これは少しおかしなことが分かります。当時のパレスチナ地方では、人々は朝、まず井戸へ行って水を汲み、どうしても足りない場合には夕方もう一度水を汲みに行ったとされています。したがって、朝と夕方が井戸に水を汲みに行く通常の時間帯であって、昼間は蒸し暑い亜熱帯性の気候のため、多くの人々は昼寝をしている時間だったのです。にもかかわらず、このサマリアの女性が正午ごろに水を汲みに来ているということは、彼女が人目を避けて水を汲みに来なければならない立場に置かれていたということでしょう。今日の聖書個所よりも後の個所になりますが、16節以下でイエス様がこの女性の状況について、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言い当てておられることから察しますと、彼女はこうした事実から性的にみだらな罪人であるというようなレッテルを人々から貼られてしまって、社会から排除されてしまっていたようです。
  また彼女はサマリア人で、このサマリア人は当時ユダヤ人から非常に差別されていました。今日の聖書個所でも「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」と書かれています。これには少し説明がいるでしょう。かつてイスラエル王国は北イスラエル王国と南のユダ王国に分かれ、その後北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされてしまうのですが、その時に、サマリアでは異邦人との間に混血と宗教混淆が生じます。このためユダヤ人はサマリア人を、イスラエル人としての純粋性を失い、正統信仰から離れた人々として蔑み、交わりを絶っていたのです。
  差別されていた人々の、その中でも差別されていた人。これが、このサマリアの女性が置かれていた現実でした。メシアがやって来たら、こんな自分を救って欲しい。その望みをかなえて欲しい。こんな差別だらけの世の中を変えて欲しい。彼女はそう思っていたことでしょう。でも、そんな彼女にイエス様は「水を飲ませてください」とお願いし、その後で御自分がメシアであることを告げるのです。
  なんでそんな流れなのだろう。私は以前から不思議に思っていました。まず自分がメシアであることを告げて、「あなたに救いが訪れますよ」という流れで良いではないか。でも、イエス様はあえて彼女にまず「水を飲ませてください」とお願いし、それから御自分がメシアであること、また彼女の救いを語っていくのです。
  このことについて、7月末にzoomで開催した東日本ユースキャンプという高校生のキャンプで、同志社大学神学部教授の三宅威仁先生から興味深いお話を伺いました。先生曰く、イエス様が「水を飲ませてください」とお願いした時点で、このサマリアの女性の救いが始まっていたのではないかと言うのです。おそらくこのサマリアの女性は、先程申し上げた状況ですね、誰からも否定されて差別されてしまう状況の中で、自尊感情と言いますか、自分で自分を肯定することができるような感情を持つことができないでいたことでしょう。「自分は誰からも必要とされていない」。そんな思いでいっぱいだったことだと思うのです。
  そんな彼女にイエス様は「水を飲ませてください」とお願いし、「私はあなたを必要としている」と告げるのです。三宅先生曰く、イエス様はここでサマリアの女性に、必要とされていることの自覚を与えていると言います。そして、それがこのサマリアの女性にとって前進する力になっただろうと言うのです。「あなたが必要だ」。この言葉は私たち一人ひとりにも前進する力を与えます。万物の造り主から必要とされている事実、その実感が自分を受け入れる勇気に繋がり、自尊感情へと繋がっていくのです。
  さて、では皆さんは自分で自分を肯定しながら人生を歩むことができているでしょうか。今の、特に若い人たちの間では、これは決して当たり前のことではないようです。いつだったか、日本経済新聞の電子版にこんな記事が挙がっていました。「アンケートで自分に価値がないと思っている、また今憂鬱に感じていると答えた高校生の割合が、アメリカ、中国、韓国と比べて日本が非常に高かった」と言うのです。では、日本の高校生たちは何にそんなにストレスを感じているかというと、男子では勉強、成績という答えが1位で、女子では友人関係という答えが1位だったそうです。そして、自分に価値があるかという質問に「そうだ」と答えた高校生の割合はたった7.5%しかなく、「まあそうだ」という答えを入れても36.1%しかいかなかったそうです。
  このように日本の若い人たちの間で自尊感情の低さが目立つわけですが、先程の三宅先生は、「しかし必ずしもこれは悪いわけではない。現実が見えていて実現可能な夢を追い求めていくというように、自尊感情の低さが向上心に結び付けば結果としてそれは良いことだ。しかし、自分を責めて苛むだけでは何の意味もない。自尊感情の低さが諦めに結び付けば可能性の芽を摘み取ってしまうことになる」と語っておられました。そして、「成功した時だけ褒められる。そして、失敗した時叱られるというようなことが繰り返されていれば、『自分はだめだ!』と思うようになってしまう。成功、失敗に関わらず、必要とされることがこういう状態から回復するために必要なのだ」と話しておられました。
  こういう今の世の中にあって、今日の聖書個所は非常に大きな意味を持っていると私は思います。「私はあなたを必要としている」。今日の聖書個所でイエス様が言われた言葉は、今の私たち一人ひとりにも言われていることなのです。自分が自分を受け入れる前に、神様が他でもない自分を受け入れて必要としておられることを私たちは知らなければなりません。
  ある僧侶の言葉を思い出します。「人間の究極の幸せは、1つは愛されること、2つ目はほめられること、3つ目は人の役に立つこと、4つ目は人に必要とされることの4つです」。今から数年前でしたでしょうか、「アンビリバボー」というテレビの番組で、日本理化学工業の大山泰弘さんという方がある時あるお坊さんからこのように言われ、「福祉施設で大事に面倒をみてもらうことが幸せではなく、働いて役に立つ会社こそが人間を幸せにするのです」と教えられて、様々な試行錯誤と努力の末に自分の会社で知的障がい者の雇用を推し進め、なおかつ会社として成功を収めるまでになったといういきさつが紹介されていました。今の利益優先、効率優先の世の中にあって、大山さんが創った日本理科学工業という会社では、現在知的障がい者が社員の七割を占めるまでになり、さらには日本国内チョークの生産1位という実績を打ち建てて、海外からも障がい者雇用のモデルケースとして注目されているそうです。
  「人間の究極の幸せとは、愛されること、ほめられること、人の役に立つこと、人に必要とされること」。大山さんは知的障がい者に対してその4つの幸せが手に入る会社を打ち建てられたわけですが、私もこの府中の地で、自尊感情が持てないで苦しむ若者たちにこの4つの幸せが手に入る教会を立てていきたいと願います。ここに来れば愛される。ほめられる。神様と人のお役に立てる。そして何よりも神様に必要とされている、そのことを感じることができて心が満たされる。幸せが得られる。そのような場所として教会を備えていきたいと願うのです。
  願わくは「あなたが必要だ」という神様の呼びかけの言葉が、すべての人の心に届きますように。世の中に必要とされていない人なんか存在しない。神様はすべての人を必要とし、御自分の許に招いておられる。この福音を普く宣べ伝えて、すべての人が自分を受け入れる勇気と前へと進んでいく力を与えられるように宣教に励んでいきたいと願います。
              祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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