2022年 10月 9日(日) 聖霊降臨節・第19主日 礼拝説教
 

「足ふきマットにされているすべての人へ」
 ルカによる福音書 1章46〜56節  
 北村 智史 牧師

  今年度に入って、教会の外の仕事がかなり忙しくなってしまいました。今年度から東京同宗連の事務局長を引き受けるということで、そのために前々から教会外の仕事を少し整理しようと頑張ってはいたのですが、あまりうまくいきませんで、抜けられたご奉仕もあったものの、それでも東京同宗連、NCC「障害者」と教会問題委員会の二つの事務局をこなし、部落解放センターの運営委員、教区社会部の委員としての働きも続けています。毎日煩雑な事務に追われながら、それでも教会の仕事がおろそかにならないように、教会の仕事の時間はきっちりと取り分けて頑張る、そんな日々を過ごしています。
  教会員の皆さんのお祈りとお支えがあって、今のところ教会の仕事に何も支障をきたしてはいないのですが、教会の外の仕事では思いがけず大きなストレスを抱えてしまうこともあります。先月、教会外のあるお仕事である団体の方から電話で猛烈なクレームをいただきました。事務局としてある問題に対し、皆の了解を得た上でこういう抗議文を出そうということになったのですが、会議を欠席されていた方から「こんなもの出されたら困るんだ」と、クレームと言うよりも一方的に怒鳴りつけるようなお電話でした。ご意見を仰るのは良いのですが、こちらの意見には全く耳を傾けてもらえませんで、そのやり方ですね、怒鳴りつけてパワーでこれまでの議論をちゃぶ台返ししようとしてくると言いますか、自分の思い通りにコントロールしようとしてくるやり方に疲弊させられました。
  その後、お手紙も書いたのですがまた電話がかかってきまして、「なんかいろいろ書いてあったけど、うちらは怒ってるんだ。もうお宅らの団体を脱退しようという意見で固まっている。うちらはうちらでやっていくパイプがあるから、お宅らの団体にいるメリットなんか何もない。こんなことされてまでいる意味なんか何もない。二度とこういうことしないと言うならともかく、でもお宅らもうちらがいない方がのびのびやっていけるでしょ。もう抜けさせてもらう」と、始終けんか腰で詰められまして、疲れました。随分なだめたのですが、「特に他の団体も反対しなかったみたいだし、もううちらがいない方がお宅さんはいいでしょ。うちらはともかく怒ってるんで、抜けさせてもらう」の繰り返しで、どうしようもありませんでした。仕方なく、「私の一存では『そうですか、承りました』とは言えませんので、このことを委員会で預からせてもらって皆で審議したうえで、改めて議長からお電話いたします」と言って電話を切ったのですが、この問題はまだ解決していませんで、頭を悩ませています。
  ともかく電話口でけんか腰で「おいこら、おいこら」と、パワーで脅すような仕方で責めて来るものですから、これが大人、また社会人のやることかなと、私も我慢の限界と言いますか、次怒鳴るような電話があったら怒鳴り返さないといけないかなと腹を括っていたのですが、それで「しんどいなあ」と心病んでいたのですが、私の様子を心配した事務局の方が相談に乗ってくださいまして、もう私は電話に出ない、議長が対応するという風にしてくれました。
  ここで誤解のないように言っておきますが、私は説教の中でこのことをお話しして、その方を批判しようとか、愚痴を聞いてもらおうというのでは決してありません。そういうことをするのが説教ではありませんし、そんなことをすれば私の感情ばかりが前に出て神様の御言葉にならないと思います。そうではなく、今回の経験を通して、社会でこれだけ色々なハラスメントが叫ばれるようになった今でも、こういうパワハラのような現実ですね、パワーで人を支配し、物事を自分の思い通りにコントロールしようとする人がいて、それに苦しむ人々がいるということ、その現実を知らされまして、そういう現実に聖書は何を語るのか、また教会はどのように向き合っていけばよいのかということを考えたいと思ったのです。
  今回、こういうことがありまして思わされたのは、結局そういう現実に出くわしたら、闘うか逃げるかしか選択肢はないのかということでした。怒鳴られたら、怒鳴り返すしかないのか。でも、それができない人もいます。そういう勇気が持てない人は、あるいは相手が直属の上司だったりして、闘えば職を失ってしまいかねないような人は、どうしたらよいのでしょう。また私は今回、何の犠牲もなく逃げることができましたが、たとえば仕事を辞める決断をしなければ逃げれない、それで生活の糧を失ってしまうという人はどうしたらよいのでしょう。結局、そうしたことで闘うことも逃げることもできず、追いつめられて心の病に陥ってしまう。けれどもこの社会はと言えば、自助ばかりが強調されて満足な共助も公助も与えられない。そんな現実がたくさんあるようで、今回のことで同じような経験をされている方も多いのかなと思ってネットで調べてみたら、そういう呻きの声が溢れていました。私の友だちも一人、職場で絶えず怒鳴りつけてくる人に苦しめられ、適応障がいを患って今休養を余儀なくされています。
  結局のところ、パワハラをするような人ばかりがのさばって、物事を自分の都合の良いようにコントロールして、優しい人、大人しい人はその足ふきマットのようにされるしかないのか、それが私たちの社会の現実なのか、ここしばらくはそんな思いに悩んでいました。そして救いを求めて聖書を読んでいたのですが、そんな時に心に留まったのが今日の聖書個所、ルカによる福音書1:46〜56です。
  「マリアの賛歌」として知られるこの個所は、「わたしの魂は主をあがめる」という言葉のラテン語「マグニフィカート・アニマ・メア・ドミヌム」の頭を取って「マグニフィカート」とも呼ばれます。天使ガブリエルから「おめでとう、恵まれた方」とイエス様を身ごもったことを告げられ、神様から恵みをいただいたマリア、そして親類のエリサベトからも祝福をいただいたマリアは、ここで感激のうちに神様への感謝と賛美を歌い上げています。
  この中で、特に私の印象に残ったのが51〜52節の御言葉でした。ここでマリアは歌っています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と。この御言葉を前に、マリアの時代のことを思います。それは権力者が力によって人々を支配し、そのために人々が様々な理不尽な出来事に苦しめられていた、そんな時代です。ルカやマタイのクリスマスの物語を読めば、マリアとヨセフが時の皇帝の命令によって、もうすぐ子どもが生まれるというような状況であったにもかかわらず、ただ税金を搾り取られるためだけに100kmも離れた町まで旅をさせられたこと、またヘロデという王様が自分の地位を守るためだけに、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしたことなどが記されています。マリアの時代、それはまさに「思い上がる者」、「権力ある者」、「富める者」がその力によって「主を畏れる者」、「身分の低い者」、「飢えた人」を蹂躙する時代であり、マリアは蹂躙される人々の側に属していたのです。そのような中で、マリアは神様が自分にしてくださったことを思いながら、人の運命を逆転させてくださる神様への信仰をこの「マグニフィカート」という賛歌で言い表したのでした。
  今回、このマリアの賛歌を読みまして、私は心に電気が流れたようになりました。ビートルズの「Let it be」という歌の詞に、「困難に直面した時、聖母マリアが私のところにやって来て、知恵の言葉を与えてくれるんだ」という言葉がありますが、まさにマリアが、あるいは神様が私に知恵の言葉を授けてくれたような、そんな気がしたのです。
  確かに今の日本の社会では、ヘロデの嬰児殺しのようなことはないのかもしれない。権力者の都合で、直接誰かが殺されてしまうというようなことは、世界を見ればそんな現実が未だに存在していますが、この日本では少ないのかもしれない。けれども、マリアの時代も今も、力で自分の思い通りに人を支配しようとする人々がいる、そしてその中で足ふきマットのようにされて苦しむ人々がいる、その現実は変わらないのです。結局、力に依り頼んで物事を自分の思い通りにしようとするのが罪深い人間の変わることのない本性のように思わされるわけですが、しかし、人の運命を逆転させてくださる神様への信仰を言い表したマリアのこの賛歌を読みますと、その現実をお許しになるのが決して神様の御心ではないことを教えられます。
  「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返され」る。マリアの賛歌と関連が深いと言われる旧約のハンナの祈りにも、人の運命を逆転させてくださる神様への信仰を言い表した同じような言葉が出てきまして、しかもそこには「人は力によって勝つのではない」とはっきりと歌われています。
  力を頼みとし、力によって物事を自分の思い通りにコントロールしようとする、そういう「思い上がる者」、「権力ある者」、「富める者」を神様はお裁きになる。そして、そういう人々の足ふきマットにされている「主を畏れる者」、「身分の低い者」、「飢えた人」をこそ真っ先にお救いになる。これこそ神様の御心であって、イエス様もこのようなことが実現するのが神の国であり、御自分の到来によってその神の国が既に始まっているとはっきりとお教えになりました。
  であるならば、私たち教会は神の国を実現するための闘いとして、この社会で力に依り頼む人々、パワーで人を支配し、物事を自分の思い通りにコントロールしようとする人々に対し、裁きと悔い改めを説いていかなければならない、そう思います。力によって人の優位に立とうとするな。コリントの信徒への手紙一13:4〜7でパウロが、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と語っているように、愛にはマナーがある。人に何かを主張する時は力を頼みとせずに、この愛のマナーに沿って、忍耐強く対話をしていかなければならない。その面倒を力によって省いてしまおうとしてはならない。そのことを愛を持って、根気強く、訴えていこうと思います。そして、パワハラに苦しむ人々、足ふきマットにされて苦しむすべての人々に、「実に福音とはあなたたちのものなのだ」とメッセージを送り、そう実感できるような社会を一緒に闘って創っていきたいと願うのです。
  妻が言っていました。「優しい人が生きにくい社会。そんな社会に未来はないと思う」と。本当にそう思います。この世の足ふきマットにされて苦しむすべての人々へ。東京府中教会はあなたたちの魂の安らぎとなる場を提供し、あなたたちが抑圧を感じずにのびのびと生きていける社会を共に目指します。願わくは力に依り頼む人々が神様の御前に謙虚にされ、愛に依り頼む者へと変えられていきますように。また、力の前に苦しめられるすべての人々が解き放たれますように。神様が望まれる愛に溢れた社会を、皆で一緒に築いていきましょう。
  お祈りをいたします。天の神様。イエス様の時代も今も、力によって物事を自分の思い通りにしようとする人々がいて、それに苦しむ人々がいます。力により頼もうとする私たち人間の罪を悔い改めさせてください。そして、力に苦しめられ、足ふきマットのようにされて苦しむ人々を解き放ってください。この社会があなたの望まれる社会、またすべての人にとって生きやすい社会へと皆で変えていくことができますように。この一言の祈りを、貴き主イエス・キリストの御名を通してあなたの御前にお捧げ致します。アーメン。

 
 
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