2022年 10月 23日(日) 降誕前・第9主日 礼拝説教
 

「神様は捨てず、放らず」
    詩編 139編 1〜12節  
 北村 智史 牧師

  ただ今聖書研究会では、パウロが書いたローマの信徒への手紙を学んでいます。この手紙は私たちプロテスタント教会にとって非常に重要な書物でして、「信仰による義」、「信仰義認」というのがテーマになっています。
  手紙の内容を簡単にご紹介すれば、この手紙はまず人間論、特に人間の罪の鋭い指摘をもって始まります。そして、「正しい者はいない。一人もいない」と、人間はすべて神様の前に罪人であると断定されるのです。パウロがこのように人間論から手紙をスタートさせるのは、人間の罪の深さを徹底的に認識することなしに、その罪人をも無償で義とし給う神様の恵み、イエス・キリストの十字架の恵みを理解することはできないという思いからでしょう。
  「人間はすべて神様の前に罪人である」というパウロのこの人間理解は、やがてキリスト教の人間論の基本となりました。そして手紙では、続けてそのような人間に対する神様の愛とイエス・キリストの十字架による贖いが語られて、行いではなく信仰による義が強調されます。罪深い人間は自らの行いによって神様に義とされる(義しいと認められる)ことは不可能である。その罪人をも無償で義とし給うのがイエス・キリストの十字架の贖いの恵みであり、人間ができるのはこの救いを信じるのみである。これがパウロの「信仰義認」と言われる考え方です。
  このようにしてパウロは、イエス・キリストの十字架の贖いを通してすべての人が無償で救われる、永遠の命を与えられることを説くのですが、それで終わりではありません。パウロの論敵たちは、彼がそのような思想を宣べ伝えて、だから人は何の気兼ねもなく、もはや罪をやりたい放題したら良いのだと人々に勧めていると批判したようですが、このような思想がパウロの「信仰義認」では決してないのです。
  手紙の中で信仰義認を説いたパウロは、続けて信仰によって義とされた者のキリストにある生き方を語ります。罪の奴隷である人間は、絶えず罪との厳しい闘いを続けているが、信仰によって義とされた者は肉欲に従ってではなく、霊に従って生きるようになる。そうして行いが聖められると言います。このように人間が神様の御心を行うように聖められていくことを神学の用語で「聖化」と言いますが、パウロは信仰によって義とされた者の聖化を語り、それはただ自分の力によってではなく、神様の御霊の助けによって起こると述べ、そして、イエス・キリストの十字架の贖いによる義認とこの「聖化」を通じて、信仰者が神様の栄光と勝利を受け継ぐ者とされる、その救いを語るのです。
  このようなロマ書を、私たちは今水曜日に学んでいるのですが、この学びを通して、私は救いというものが決して将来だけのものではないのだということを知らされました。終わりの日に私たちは永遠の命に与ることができる。その恵みは今現在の私を罪から解き放ち、さらには今を生きる大きな力となっていくのです。その意味で、キリスト者は将来救いを約束されているだけでなく、今、救いの中を実際に生きている存在だと言うことができるでしょう。そして、今日はこの今における救いと言いますか、今実際に生きることができている救いについて、もう少し掘り下げて考えてみたいと願っています。
  さて、先程お読みいただいたのは詩編139:1〜12です。ここに歌われているのは、全知全能の神様がどこにいてもそこにいまして私をとらえてくださるという信頼です。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる」。私のことで知らないことは神様には何もないと詩人は歌います。
  この詩編を読むにつけ、思うのがイエス・キリストのことです。もう少しすれば私たちはまたクリスマスを待ち望むシーズンに入っていきますが、今からおよそ2000年前に神様が人となられて私たちの世界へとやって来られた。それはもちろん究極的には十字架の贖いを成し遂げるためだったのでしょうが、しかし、神様は同時に、イエス様の生涯を通して、私たちの弱さや苦しみ、痛み、そうしたものを全部御自分の経験としてお知りになられました。
  詩編23編ではこの神様、主が「羊飼い」と歌われます。天においても地においても、また陰府においても力と権威を持たれる主。永遠の神様。私たちの人生はこの方の御手の内にあり、その御手は力強い全能の御手です。しかし、同時に慈しみと恵みと愛に満ち溢れた御手でもあります。主、私たちの神様こそは私たちの「羊飼い」であり、主は身を低くして私たちのもとにまで訪ねて来られます。主は私たちを訪ね、私たちの弱さ、痛み、苦しみのすべてを知り尽くし、導かれるのです。この主に任せまつることのできない心配事などありません。この主に委ねまつることのできない悲しみなどありません。そしてまた、この主が私たちのために共にいましてくださらない悩みの時などありません。たとえ「死の陰の谷を行くときも」、「インマヌエル」=「神は我々と共におられる」。この確信を、詩編139:1〜12は高らかに歌い上げています。
  この詩編を通して、私たちは決して永遠の命に至るまで、神様に捨てられること、放られることなどあり得ないことを知るのです。その救いは私たちの今を生かす大きな恵みに他なりません。
  このことに関連して、私はテレビである方を取り上げたドキュメンタリーを見ました。ここで皆さんにお聞きしますが、皆さんはホルモンというのをご存じでしょうか。かつては「放るもん」(=捨てるもの)と呼ばれ、売れ残り、廃棄されることが多かった牛の内臓のことで、その魅力を引き出し、高めてきた、東京で一番と言われる焼き肉店の従業員、仮にTさんと言っておきますが、その方が特集されていたのです。
  今では「ホルモンの神様」と呼ばれ、その業界では知らない人がいないほどの有名な職人であるTさんですが、その人生はまさに波乱万丈でした。Tさんは昭和33年に精肉店を営む両親のもとに生まれましたが、2歳の時に店にあった挽き肉の製造機に誤って手を入れてしまい、右手の指を失ってしまいます。生活するうえで不自由することはありませんでしたが、学校に通うようになると右手のことを意識せざるを得なくなりました。中学校でフォークダンスなどがあると、「嫌だ」、「気持ち悪い」、「触るのも嫌だ」と言われ、こうしたいじめ、差別、偏見などから、足をバンバンに打って腫れさせて、「今日はもう学校に行けない」と言って休んだと言います。「あの屈辱、ああいうのは忘れられない」とTさんは当時を振り返り、語っておられました。「もう学校には行きたくない」と、中学を卒業後は就職を決めたTさん。知人の紹介で神戸のステーキ店に口利きしてもらいます。しかし、いざ働く段になると、「右手が悪い子は雇えません」と言われてしまいました。「右手の悪い子は料理できないだろう、包丁が持てないだろう、何もできないだろう」と決めつけられたのです。
  大きなショックを受けたTさんは実家に戻り、家族が精肉業の傍らで営んでいた焼き肉店で働き始めます。しかし、仕事に身が入らず、言われたことだけこなし、店が閉まると遊び歩きました。「自分は必要のない人間だ」。そんな日々が15年続いたある日のこと、仕入れ先に訪れた食肉市場でTさんはある光景を目にします。カルビやロースなどが次々と引き取られるその脇で、売れ残ったホルモンが大量に置かれていたのです。それが、どこか自分と重なりました。「俺も放られたもんだから、ホルモンみてえなもんだ。放られたというか、この世から半分は脱落したんだから、自分の人生も放られたもんだから、ホルモンみてえなもんだ」。そう思ったTさんはホルモンを買い取り、その日から売るための努力を重ねました。
  雑味や臭いを取るための洗い方、舌触りをよくするための刃先の入れ方。1日15時間、左手一本の仕込み。包丁を押さえ続けた指からは指紋が消えました。偏った重心を支え続けた足は血流が滞り、思うように動かせなくなりました。それでも売れない日々は続きましたが、諦めませんでした。試行錯誤を続けて数年後、ぽつりぽつりと地元では見かけない客が店を訪れて来るようになりました。見向きもされなかった食材を笑顔で頬張る客を見た時にTさんは思いました。「捨てるのも、拾うのも、自分だ」と。「努力して社会が認めてくれた。客が並べば並ぶほど嬉しい。売れないものを売る。それでお客さんはおいしいと納得するんだもの。後ろなんて振り向くな。前だけ見てろ。進んでいけ」とTさんは言います。それから30年、店は東京で一番の焼き肉店と言われるようになり、連日何時間も行列ができるまでになりました。「若い時はこの右手が憎くてしょうがなかった。そう思っていたのに今では反対にこの右手があったから今の自分があると右手に感謝している。そうでないとここまで究極に物事をやれなかった」。Tさんはこのように語り、今も右手が教えてくれた自分だけの道を歩み続け、自分に教えを請いにやって来る若い人たちを決して「捨てず、放らず」、愛情を持って育てておられます。
  こうしたTさんの特集で一番私の心に残ったのが、「捨てるのも、拾うのも、自分」という言葉でした。私たちは時に人生の中で大きな苦難を経験し、誰からも、神様からも人からも見捨てられてしまったような、そんな思いにさいなまれることがあります。でも、今日の詩編の御言葉が教えてくれているように、神様は決して私たちを捨てないし、放らない。神様に捨てられたように感じても、実は人生を諦め、捨てているのは自分自身なのだ。そういう自分の人生を、決してお見捨てにならない神様の愛に気づき、そのもとで拾い始めた時、永遠の命に至るまでの個人の救いというのは今実際に始まっているのではないか。そう思いました。
  「弱さも磨けば個性になる」。もう一つ印象に残ったTさんの言葉です。ローマの信徒への手紙5:3〜5の御言葉と一緒に味わいたいと思います。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
  どのような時も神様は捨てず、放らず、聖霊を通して私たちに愛を注ぎ続けてくださっています。その神様のもと、私たちもどんな事があっても、自分の人生を捨てず、放らず、弱さを磨き、個性としながら、前を向いて救いの中を懸命に生きていきたいと願います。やがて終わりの日に神様がすべての労苦の涙を拭ってくださって、私たちを永遠の命の救いに至らせてくださるという希望は決して私たちを欺きません。だから、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピの信徒への手紙3:13〜14)。前からも後ろからも、またどこにいましても私をとらえてくださる神様の深い愛のもと、救いの御手に抱かれながら、決して腐らず、投げ出さずに、人生の徒競走を皆で支え合って走り通して行きたいと願います。
            祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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