2022年 10月 30日(日) 降誕前・第8主日 礼拝説教
 

「クリスマスを前に主の生涯を思う」
    マルコによる福音書 16章 1〜8節  
 北村 智史 牧師

  先週から教会の暦で降誕前のシーズンに入りました。今日は降誕前第8主日の礼拝を神様にお捧げしています。もう一月ほどしたらアドベントに入り、クリスマスシーズンが始まっていきます。そうすると、礼拝の中でもクリスマスの物語が取り上げられる機会が増えてくることでしょう。
  クリスマスの物語と言えば、皆さんはどんなお話を思い浮かべるでしょうか。マタイやルカの福音書を読みますと、天使ガブリエルによってイエス様の誕生がマリアに告げ知らされるお話や、イエス様が貧しい馬小屋の中でお生まれになるお話、東の方から三人の学者たちがイエス様を訪ねて旅をして、イエス様に黄金と乳香と没薬を献げるお話、羊飼いたちにイエス様の誕生が告げ知らされて、イエス様に会いにやって来るお話など、イエス様がどのようにしてお生まれになったのか、またイエス様がお生まれになった時、どのようなことがあったのかというお話が出てきます。ページェントなどでも度々演じられる、有名なクリスマスの物語です。
  こうした物語を読みますと、イエス様が華々しいお城や宮殿の中にお生まれになったのではなくて、馬小屋の飼い葉桶の中でお生まれになって、貧しくて皆から虐げられて苦しんでいる人々の救いのためにこの世に来てくださったことが良く分かります。
  で、今日はあえてマルコによる福音書のお話を聖書個所に取り上げさせていただいたのですが、聖書をお持ちの皆さんはこの福音書の最初のページを見ていただけますでしょうか。そこには、イエス様の誕生について何か書かれてあるでしょうか。
  何も書かれていないですよね。マタイによる福音書にもルカによる福音書にも、イエス様がどのようにしてお生まれになったのか、イエス様がお生まれになった時、どのようなことがあったのかがきちんと書かれてあるし、ヨハネによる福音書にも、少し難しいですが「言(つまりイエス様)は肉(人間)となって、わたしたちの間に宿られた」と、きちんとイエス様の誕生について書かれてあります。でも、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つある福音書のうち、マルコによる福音書にだけ、実はイエス様の誕生について何も書かれていないのです。
  では、なぜこのマルコによる福音書にだけイエス様の誕生について何も書かれていないのでしょう。その手掛かりとなるのが、今日読んでもらった聖書個所だと私は思います。これはイエス様の復活の場面であり、イースターの時に読まれることが多いお話だと思うのですが、これを読みますと、イエス様の復活を告げ知らせた天使は「復活のイエス様にガリラヤでお目にかかれる。そのように弟子たちに言いなさい」と婦人たちに告げたのでした。
  神様の愛の実践に生き抜いたイエス様を、神様は悲惨な十字架の死で終わらせない。新しい復活の生命を与えられたイエス様に、私たちはガリラヤで出会うことができる。ガリラヤの地で、生涯を通して神様の愛と神の国、また正義と平和の実現のために生きたイエス様と出会うことができる。
  私はこれこそマルコによる福音書に隠されたクリスマスメッセージだと思うのです。マルコによる福音書の著者は、渾身の思いを込めてイエス様のことを証言してきた福音書の最後の場面で、ガリラヤにおいてこそ復活のイエス様に出会うことができると語ります。つまり、イエス様と出会い、イエス様を受け入れるクリスマスは、ガリラヤに生きたイエス様の生涯を想い起こし、その生き様に真実を見出し、その生き方に繋がって生きることに結び付いているということでしょう。マルコによる福音書を書いた人はクリスマスなんてどうでもいいと思ってイエス様誕生の場面を書かなかったわけでは決してなくて、私たちにイエス様がどのような生涯を送られたかに目を向けて、そこからクリスマスの意味、イエス様がこの世にお生まれになった意味を理解して欲しくて、あえてこのような福音書を仕上げたのだと私は思います。
  マルコによる福音書全体を読めば、十字架の死に極まる神様の愛に生きたイエス様、そして死では決して終わらない、復活の生命を神様から与えられたイエス様、そのすべてをもたらした神様との出会いに私たちは導かれていきます。ガリラヤの悩み苦しむ人々の中で生き、復活の新しい生命としてのイエス様に「ガリラヤで出会う」ことへと導かれていきます。この世の荒野、殺伐とした砂をかむような社会の荒野、人生の荒野に生きる人々、その一人ひとりの所にイエス様は来てくださっている。あなたは決して一人ではない。イエス様が共にいてくださる。さあ、神様が新しい生命を与えたイエス様を迎え、イエス様と共に生きていこう。これがマルコによる福音書に秘められたクリスマスメッセージなのです。
  なので、降誕前のシーズンに入り、クリスマスシーズンの直前にいる私たちとして、私は今日、マルコによる福音書に書かれたイエス様の生涯を振り返っておきたいと思います。マルコによる福音書を読めば、イエス様が病気や障がいを抱えて苦しんでいる人々を癒したり、罪人と差別され、一緒に食事をすることすら許されていなかった人々と食事を共にしたりと、一貫して貧しく小さくされた人々に寄り添って生きられたことが分かります。イエス様は苦しくて呻いている人々の側に立ちつくして闘って、ついには私たちすべての人間の罪を背負って十字架の上で死なれて、復活の出来事を通してすべての人々の罪を贖って、私たちをお救いになりました。
  イエス様の生涯は、神様のもとでは、どれほど絶望的に思える出来事も、必ず希望の内に終わるのだということを私たちに教え、苦しんでいる人々に寄り添って生きていく道に私たちを「おいで、おいで」と招いてくれているように私には思えます。これから迎えるクリスマスシーズン、私はこの招きを心にしっかりと留めておきたいと願います。
  苦しむ人々に寄り添うこと、それは決して簡単なことではありません。今から11年前の3月11日に起こった東日本大震災のことを思います。被災地では多くの人々が、愛する人を亡くした悲しみ、家や仕事を失った苦しみの中で、放射能の危険に怯えながら暮らしていくことを余儀なくされました。こうした大きな困難の中にある方々に寄り添っていくこと、一緒に希望を見出していくことはとても難しかったように思えます。震災から11年と半年、今でも震災を経験した人は被災地で、また避難先で大きな心の傷を抱えながら、懸命に復興の道を歩んでおられます。震災のことを決して風化させることなく、寄り添い続けていく。それは言葉で言うほど簡単なことではありません。でも、そうした時に思い出すのは、震災直後ボランティアに関わった教会の人々が大切にした、スローワークという言葉です。
  当時、復興のために必要なこととはいえ、また、大きく破壊されてしまっているからとはいえ、重機で思い出の詰まった大切な自分の家が壊され、撤去されていくのは、被災された人々にとってはとても辛いことでした。復興の効率が重視され、見落とされていたこうした心の面に向き合うために、私がお話を聞いた教会のボランティアの人々は、あえて効率を重視せず、被災された人々と触れ合いながら、一緒に涙して、時にはどう向き合ったらいいんだろうと悩みながら、それでも懸命に、そして誠実に、ゆっくりとボランティア活動に励みました。それは、効率重視の作業では担うことのできない、とても大事な働きだったと私は思います。
  自分にどれだけたくさんのことができるだろうかと考えると、人に寄り添うことはとても難しく感じてしまいます。でも、どれだけたくさんの愛をその行為にこめるかを大切にした時、神様は私たちに思いがけない大きな力を与えてくれます。私が前に伝道師をしていた教会で教会学校の中高生たちがクッキー作りをして、その売り上げを被災地に寄付するという活動をしていましたが、そうした働きがまさにそうだと思います。働き自体は小さなものなのかもしれない。でも、それを毎週続けるというのはとても大変なことだし、そうやって心をこめたその働きが、原発で働く作業員の心を慰めることにつながったり、教会のたくさんの人たちに、「ああ、被災された方々のことを忘れちゃいけない。自分も支えなきゃ」と、復興を支援する気持ちを後押ししたりしたのです。
  マルコによる福音書の初めの方の個所で、イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と仰いました。「悔い改めて」というのは、神様の方向に心を向けてということです。つまりイエス様はここで、「神の国は近づいているよ。だから神様の方に心を向けて、貧しく小さくされている状況の中にあっても、あなたは神様から愛されている、希望が必ず訪れるという喜びの知らせを信じなさい。そして互いに寄り添い合いなさい」と仰ったのです。このことと関連して、インドのカルカッタという所で、イエス様に招かれて、イエス様と同じように、生涯をずっと病気や飢え、貧困に苦しんでいる人々に奉仕をして生きたマザー・テレサという人が次のように語っています。
  「わたしたちは、神のおられる天国を、いつも待ち望んでいます。しかし、同時に、今このときに神と共に天国にいること、今このときに神と共にいる幸せにも招かれています。この『今このときに神と共にいる幸せ』とは、何を意味するのでしょうか。それは、神が愛するように愛すること、神が助けるように助けること、神が与えるように与えること、神が仕えるように仕えること、神が救うように救うことなのです。」
  神様のもとではどんな絶望の先にも必ず希望が訪れる。このことを信じて、イエス様がその生涯でそうされたように恐れず人に寄り添っていく気持ちを、これからクリスマスを迎えていくにあたり、新たにし、大切にしていきたいと願います。

          祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 

 
 
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