2022年 11月 6日(日) 降誕前・第7主日 礼拝説教

 

「我は聖徒の交わりを信ず」
    ヨハネによる福音書 14章 1〜6節  
 北村 智史 牧師

  今年も「聖徒の日・永眠者記念日」の礼拝を、このように皆さんと一緒に神様にお捧げすることのできる恵みを感謝いたします。私たちが所属しています日本基督教団では、11月の第1主日、第1日曜日を「聖徒の日・永眠者記念日」と定めておりまして、毎年この日には、既に神様の御許に召されて、今は安らかに憩っておられる信仰の先達たちのことを偲ぶ礼拝が執り行われるのです。
  けれども、それは仏教のように亡くなられた方の成仏を祈るとか、供養をするといった意味での礼拝では決してありません。亡くなられた方の魂は既に救われて神様の御手の中に抱かれているのでありまして、それを信じることが私たちの信仰です。それゆえ、亡くなられた方のために私たちが特別何かをしてあげなくてはならないといった考え方は、キリスト教にはありません。「聖徒の日・永眠者記念日」というのは、私たちが死者のために何かをしてあげる日というのではなくて、むしろ逆に今は神様の御許にある聖徒たちによって、私たちが御国への希望を新たにされ、励まされる日ではないかと私は思います。
  今、この礼拝堂には、この東京府中教会で信仰生活を過ごされた方々、東京府中教会に縁を持たれた方々のお写真と名簿が飾られていますが、これらの方々は皆、今は天上で神様の御許に置かれているのだと私たちは信じています。ヨハネの黙示録が描き出すような壮大な天上の礼拝を、この人たちは皆、天使たちと一緒に守り続けている。そして、私たちはその天上の礼拝を仰ぎ望みながら、この礼拝堂で、天上にある者たちと共に礼拝を捧げている。いや、むしろ逆に、天上の礼拝を捧げている無数の人々が、地上の小さな礼拝堂で礼拝を捧げている私たちに向かって、その眼差しを注いでくれている。神様と一緒に、私たちの地上の礼拝の営みを、天上の礼拝を映し出すものへと整えてくれている。そのことを、私たちはこの「聖徒の日・永眠者記念日」の礼拝の時に信じて、心に刻み直すのです。願わくは本日の礼拝が神様に祝福されて、既に召されし信仰の先達たちと温かく心を通い合わせる一時となりますよう、また御国を思う大きな慰めの一時、希望の一時となりますよう、心をこめて神様にお祈りしている次第です。
  さて、そんな今日は聖書の中からヨハネによる福音書14:1〜6を取り上げさせていただきました。この箇所は、イエス様が十字架の死を前に弟子たちにお語りになった「告別説教」であり、「遺言」と言っても差し支えない御言葉です。イエス様は十字架に引き渡される前の晩、弟子たちと共に過ごされた晩餐の席上でこの御言葉を語られました。
  イエス様は言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。自分はこれから十字架と復活の出来事を成し遂げ、天へと帰って行くけれども、「心を騒がせるな。神様を、そして私を信じなさい」とイエス様は言われたのです。そして、私たちにとって決定的な、大きな慰めの言葉をお語りになりました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」。
  イエス様がこれから成し遂げようとしておられる十字架と復活、昇天の御業は、天にある神様の住まいに私たちの場所を用意するためのものに他ならない。イエス様は十字架と復活の御業により、私たちの罪を贖い、私たちの死を滅ぼし、天へと帰って行かれてそこに私たちの住まいを整えられる。そうして、終わりの日に再臨され、私たちをその住まいへと迎えてくださる。そうして、すべての者が神様のもとで安らかに永遠の命に憩うようになる。イエス様はそのことを私たちに約束してくださったのです。
  今日は永眠者記念日ということで、東京府中教会とゆかりを持ち、既に神様の御許に召された信仰の先輩方のお写真と名簿が飾られていますが、これらの方々はイエス様のこの約束の祝福に今実際に与っておられます。イエス様が整えてくださった天上の住まいに招き入れられ、そこで神様を賛美礼拝しながら安らかに永遠の命に憩っておられます。ヨハネの黙示録に記されているごとく、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆と共に、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、神様とイエス・キリストを賛美礼拝しながら、永遠の命の祝福に与っておられるのです。そして、「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」と聖書には記されています。
  それだけではありません。私たちの教会でしばしば告白される使徒信条には最後、こうあります。「我は……聖徒の交はり……を信ず」と。この「聖徒」という言葉には、あらゆる時代、あらゆる場所から神様によって教会に招かれたすべての者が含まれています。つまり、私たちにとって信仰の家族とは、その交わりは、今この時、教会で私たちと歩みを共にしている人々にだけ限られたものでは決してありません。私たちの信仰の家族の広がり、またその交わりは、信仰によって私たちよりも先に神様のもとへと歩んで行かれたおびただしい群れにも及んでいるのです。
  このことは、既に神様の御許に召された方々と私たちの間にあるのが決して断絶ではないということを意味しています。両者の間には常に交わりがあります。既に神様の御許に召された方々は天上の住まいに移されて、それで私たちと、私たちが神様の御許に召されるその時までのお別れになってしまったわけでは決してないのです。私たちが礼拝のために、また祈るために集う時には、いつでも天上にいる信仰の家族が一緒です。まるで天の住まいから身を乗り出し、私たちが神様にささげる賛美の声に自分たちの声を合わせようとするかのように、また今行われている真理に生きるための私たちの闘いを勇気づけるかのように、これらの家族が共にいてくれます。その交わりを意識しながら、今日も天上の家族も含めて皆で神様に豊かな礼拝をお捧げしたく存じます。
  願わくは私たち、これからも聖徒の交わりを信じ、その温かな交わりの中を歩んで行くことができますように。今生きている信仰の家族だけでなく、既に神様のもとで安らかに憩っておられるすべての信仰の先輩方が私たちを温かく見守ってくれている、支えてくれている、そのことをいつも信じてこれからも歩んで行きたいと願います。
                祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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