2022年 11月20日(日) 降誕前・第5主日 礼拝説教

 

「信仰は政治的」
    マタイによる福音書 6章 9〜13節  
 北村 智史 牧師

  今年は9月11日に第1回の修養会を行いまして、主の祈りを学びました。まず主の祈りの概論を学び、それから主の祈りを各項目に分けて詳しく取り上げていきました。「天にまします我らの父よ」、「ねがわくはみ名をあがめさせたまえ」。9月11日はこの二つの項目まで学んだことと思います。来年の2月12日には第2回の修養会として、皆さんの週報ボックスにレジュメを配布し、その続きを学んでいく予定です。今日はその先取りと言いますか、9月11日には学べなかった主の祈りの第3項目と第4項目、すなわち「み国を来らせたまえ」と「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」、この二つの項目を取り上げて皆で一緒に学んでいきたいと考えています。
  さてそういう訳で、今日は聖書の中から、イエス様が主の祈りを弟子たちにお教えになった場面を取り上げさせていただきました。マタイによる福音書6:9〜13です。実は聖書にはもう一か所、イエス様が弟子たちに主の祈りをお教えになる場面が出てきまして、それがルカによる福音書11:2〜4です。つまり、福音書の中には2つの主の祈りの伝承があるわけですね。
  まずマタイの伝承の方を見てみましょう。ここでは、主の祈りは5〜7章の「山上の説教」の中に位置づけられています。その中の、祈りについてのイエス様の教えの中に組み入れられているのです。マタイの編集の手が加えられていることは明らかで、そのスタイルも礼拝において唱えられるにふさわしいものとされています。
  他方ルカの伝承によると、「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と弟子たちがイエス様に願ったところから主の祈りが教えられたと記されています。その祈りはマタイの方と比べると簡単なもので、祈願の数もマタイの6祈願に対して5祈願しかありません。こうした違いが何を意味するかに関しては9月の修養会で説明いたしましたので今日は省きますが、大切なことはイエス様から出た主の祈りが、マタイやルカの属していたそれぞれの教団において、礼拝や教育の活動の中で伝承と発展を続けたということです。このようにイエス様から与えられた祈りは、それぞれの状況の中で整えられ、発展し、現在教会で祈られている主の祈りが成立したのでした。
  今日はその中でも第3項目と第4項目を取り上げます。「み国を来らせたまえ」、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」、これら二つの祈願は私たちの信仰にとって何を意味しているのでしょうか。
  主の祈りの第3項目、すなわち「み国を来たらせたまえ」という祈りから、主の祈りが具体的かつ日常的な事柄に向かって動き始めていくことを私たちは弁えておかなければなりません。「あなたのみ国が来ますように」と国のことから始まって、地のこと、すなわちこの世のこと、パンのことというように、この後、主の祈りではさらに具体的で日常的なことが取り上げられるようになっていきます。
  こうした流れに、ある方は抵抗を感じるかもしれません。「私たちは霊的な事柄に関心を向けるべきではないのか?そんな物質的なことを祈るなんて…」と戸惑いを感じる方もおられるかもしれません。しかし、イエス様は日毎の糧までも具体的に求めるこのような祈りを実際にお教えになりました。
  このことから窺えるのは、イエス様が霊的な事柄、あるいは現実離れした事柄ばかりを説いて、現実の物質的な事柄をなおざりにされるようなお方では決してなかったということです。イエス様の神の国運動、それは彼岸のと言いますか、この世ではないどこかにあるような理想のユートピアを説いて、目の前の現実、満たされない様々な物質的な事柄から逃避するように勧めるような運動では決してありませんでした。むしろその逆です。イエス様の神の国運動はとことん現実的で政治的でした。「み国が来ますように」、「あなたのみ国が現実にこの地に来ますように」と祈り、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と、この地に神様の御心が実際に成るように懸命に働かれたのです。イエス様も、これをメシアと仰ぐキリスト教も共に物質的なこと、この世のこと、政治的なことに関心を注ぐお方であり、宗教であることを私たちは知らなければなりません。
  あるいは、こう言った方が良いでしょうか。イエス様にとって、また私たちにとっては、霊的な事柄と物質的な事柄は一つなのだと。「み国を来らせたまえ」。「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」。このように祈るたびに、政治やパンのように物質的な事柄が、そのまま私たちにとって霊的な事柄になっていきます。救いを求め、霊に燃えて、信仰的な事柄として、私たちはこの世の物質的な事柄、政治的な事柄に関心を持って、関わっていくのです。
  主の祈りが教えてくれます。私たちが生きているこの地に関心を払わないキリスト教の信仰などあり得ないと。教会をこの世と隔絶した聖域としてそこに閉じこもることは許されないと。信仰の中には、この世の問題から逃れることを願っている信仰者一人ひとりに、剣と盾、ぶどう酒とパン、あるいは政治と権力というような、目に見える地上の事柄とは距離をとらせようとするものもあります。しかし、キリスト教はそのような宗教ではありません。実際にこの地に神の国を打ち建てるべく、現実をとことん見つめ、革命の働きを担う者として遣わされていく使命をキリスト者は負っています。キリスト教ではいつでも信仰と政治は結び付いているのです。それは主の祈りが示すように、イエス様が極めて政治的な方だからです。
  しかしながら、教会の中を振り返って、信仰と政治を分ける人の何と多いことでしょうか。西東京教区でもかつて安保法制が制定される時に反対の声明を出そうと議論されたことがありましたが、そして最近では教団の社会委員会が安倍国葬に反対の声明を出しましたが、こういう議論をすると決まって「それは政治だろう。教会のやることではない」という声が上がってきます。教会として社会の問題に関わろうとすると必ず「それは単なる社会活動だ。社会運動だ。政治運動だ。信仰ではないし、教会のやることではない」という声が上がって来るのです。
  私自身は社会の問題に関わらない信仰こそ信仰ではないと思うのですが、東京の場合だともっと厄介で、そこに過去の学生闘争や教団紛争時代のトラウマみたいなものが付きまとってくるみたいです。つまり、「安保法制に反対とか、そういう声明を出すのは信仰として大事なんだろうけれども、運動論が入っているゆえに反対する」とかいった意見、すなわち「信仰として社会問題に関心を払うのが大切であることは認めるけれども、一度教会の中で社会運動、政治運動を許すと暴徒化するのだ、かつての学生運動みたいなことになるのだ」とかいった意見が出されて、教区として声明を出そうといった案が潰されてしまうのです。
  そのたびに、「いったいいつの時代の話をしているんだろう」と呆れます。今の時代、誰がヘルメットを被り、プラカードと火炎瓶と角材を持って運動するでしょうか。安保法制が制定される時、多くのキリスト者が反対のデモに参加しましたが、その中にそんな運動をしている人がいたでしょうか。私の仲間にはその信仰から社会問題に関わる人がたくさんいますが、誰もそんな暴力に訴えるような過激な仕方で運動なんかしません。非暴力・不服従のバランスの取れた仕方で運動を展開しています。
  結局、過去の学生闘争や教団紛争時代の「社会派」、「教会派」という古い対立構造に未だに囚われた年配の教職、それも男性教職ですね、男性中心主義の価値観、また社会の中を生きてきて、そして今も権威を持ってふんぞり返っている男性教職と、その影響を強く受けた人たち、いわゆるお偉いさんと目されるような人たちが、偏った「教会派」の主張ですね、社会問題に関わるなんて教会のやることではないのだ、教会は伝道だけやっていればよいのだとか、社会運動をやると人々は暴徒化するのだとかいった主張を未だに展開している、また下の世代たちに自分たちの右に倣えを強要しているというのが東京の姿でしょう。
  もっともところ変われば、同じく学生闘争や教団紛争時代バリバリ「社会派」をやっていた年配の教職、またそれに影響を受けた人々が未だに暴力的な仕方で暴れまわっているというのも私は確かに見てきました。しかし、そんな人はごく一部でほとんどの人から呆れられ、問題視されています。若い世代がそれを見習って続いていくことはもはやありえません。私も社会問題に色々と関わる方ですが、今社会問題に取り組む多くの人はそんな暴力的な仕方をしませんし、「伝道しかしない」、「社会活動しかしない」の二者択一ではなく、両方を全力で取り組むというバランスの取れた思想をしています。
  結局、東京の「教会派」の主張を未だになさる人々は、一部に残る「社会派」の人々を警戒してそのように言うのか、あるいは今バランス感覚を持って社会問題に取り組んでいる人と一部に残っている極端な「社会派」の人々の区別がついていなくて、社会問題に取り組む人々は皆極端な「社会派」の人々になると考えているのかなと思うのですが、このように日本キリスト教団がいつまでも「社会派」、「教会派」という古い過去の亡霊に取りつかれている限り、教会として未来はないと思うのです。
  「社会派」、「教会派」、そうした古い対立の構図、二極化の構図から解き放たれるためにも、東京にいる身として信仰は政治的であるということ、政治的な側面を無視して私たちの信仰を語ることはできないということを改めて強く訴えていきたいと願います。
  かつてイエス様は弟子たちに、自分たちが生きているこの地に関心を持ち、「み国を来らせたまえ」、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るようにお教えになりました。このように祈れということは、神の国が完全な姿ではまだここに来ていないということです。神の国は来りつつあります。しかし、ここにある神の国はまだ始まったばかりのもの、垣間見ることしかできないものであり、その完全な姿を備えてはいません。このように「すでに」と「いまだ」という言葉をもって将来を捉えるキリスト者の信仰を終末論と呼びます。
  実にキリスト者の信仰は、終末論的な信仰です。イエス・キリストによって神の国が「すでに」開始された。私たちはやがて皆、貧しく小さくされた人々が真っ先に幸せになるという神様の御心が成る神の国で永遠の命の祝福に与る。けれども、今この世界はそのような神の国の姿とはかけ離れている。「いまだ」そのような世界にはなっていない。その時の狭間で、私たちは希望に溢れた確かな将来を仰ぎ見ながら、今を誠実に生きていくのです。主の祈りを祈りつつ、神様の御心を尋ね求めながら、神様の御支配が成るように今を変えていくのです。その時、私たちにとって政治的な働きが祈りとなることは言うまでもありません。
  願わくは、キリスト者がこの世界の事柄とは距離を置くべきなのか、そうするべきではないのかという問い自体が成り立たないことを私たちがはっきりと自覚することができますように。「主の祈りを祈るとは、私たちがキリスト者として行うことのできる最も挑戦的であり最も政治的な公の行為のひとつなの」だという神学者ウィリモンの言葉にあるごとく、「御国が来ますように」、「みこころを地にもなさせたまえ」と祈りながら、この世界のただ中に身を乗り出していきたい、キリスト者としての使命を豊かに果たしていきたいと願います。
                 祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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